先日発表した北海道の「擦文」期の大型住居続篇。
このオホーツク圏の常呂の古代住居遺跡群は2000軒ほどとされる。
もちろんそれは数百年にわたって人々が住み続けてきたということで、
一時に都市集住のように多人数が住んでいたということではない。
数百年間、2000家族が違う家を建てながら住み暮らしていたということ。
たぶん数十戸程度の集落単位で暮らし続けていたのでしょう。
世代更新を20年、住居の耐用年数を20年と考えれば500-600年程度でしょうか。
そういう定住が可能なほど、この地は食料獲得に適していたのでしょう。
古代の人々の生活風習文化として、家とその住まい手家族は一体として存在し、
その住人が死ねば家も焼いてともに「送る」習俗だったとされる。
子どもは結婚とともに新居を建てて移り住んだ。
家を「継承する」という概念はかれら社会にはなかったという説が強い。
本州以南の日本社会では生産手段としての田や土地の所有概念が強く
その管理のための住宅を当然のように継承する文化があるけれど、
北海道に住み暮らしていた先住の人々にそういう痕跡はうかがい知れない。
基本的に自然共生の暮らしがあって、財・タカラについての観念は大きく違った。
とはいえ一方で「交易」という概念は非常に強く持っていて、
たとえばこの時期のオホーツク文化で獲得される狩猟産物、鷹の羽根とか
アザラシの獣皮などが奈良平安期の貴族たちに珍重され入手を競ったとされる。
それはオホーツク文化の人々から直接ではなく、擦文の人々を経由した交易。
直接交易を考えたオホーツクの人々は日本社会に接近し道南の奥尻島まで進出。
結果、北海道西部の擦文社会と緊張状態となりかれらと友好的なヤマト社会からの
北征軍事集団としての阿倍比羅夫の遠征出征を招来し、
奥尻島でヤマト軍に敗退させられた痕跡が残っているとされる。最新の研究。
そういう「タカラ」と交易への執着はあるけれど、あくまで狩猟採集が基本であり
日本農耕社会のように生産手段などに対しての固執をみせることはない。
生きることとはもっと属人的なことで自然の意思と個人能力が根源と考えていたか。
いずれにせよ相続継承という観念は薄い社会であったように思われます。
さて、かれらの復元大型住居であります。
常呂には東大の遺跡研究探査機関があり、この復元住居には
その研究成果が反映されているとされています。
上写真は、常呂町広報誌に掲載された遺跡施設からの情報提供より。
この建物は定期的にメンテナンス作業も行われているということ。
自然素材の非定住住宅は囲炉裏火による燻煙も期待できないので
屋根の萱の更新とか、いろいろ維持が大変の様子。
しかも復元住居なので、どうしても現代の建築技術工具に頼れない。
萱の更新ひとつ取っても、現代の北海道で技術伝承があるとは思えません。
そういう労苦の積層された復元住居ですが、この住居は素晴らしい。
かまどが2つあるという大型住居。この時代かまどは属人的で主が決まっていて
他者がそれを使うことは禁忌とされていたそうです。
だから、この住居は単独世帯ではなく、多世帯同居住宅だった可能性。
梁行も豪快で見た感じでは10mくらいの長大さ。
東大の調査からの復元で、根拠の確かな寸法なのでしょうから
この遺跡全体から見ても、相当の「高級住宅」であった可能性が高い。
囲炉裏周辺の土間の広大さ、室内空間の豪快さに息をのむようであります。
想像では「族長」的な存在の住居痕跡とも思われます。
あんまりステキなので、ちょっと住んでみたくなりますね(笑)。
Posted on 9月 25th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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