新型コロナ禍でなかなか他地域への交流拡大は難しい。
なんといっても移動にはリスクが伴う。勢いブログ記事も過去に取材の
民俗的建築からの歴史探究に傾倒気味。本日は「鄙」の神社事例。
最近とくに播州の「三木家住宅」など家系伝承に取材した記事が増えております。
こういう現地検証済の身近な事例は、想像力が強く刺激される次第。
中世社会で、他地域からその地に新規参入した勢力側は、
どのように地域への参入・浸透を進めるのか、そのひとつの事例。
播磨国の「飾磨」湊に上陸し地域に根を張ろうと考えた三木氏は
この地域に深く根ざしていた「英賀神社」を利用した痕跡を発見した。
寄進を行い、新規の神さま勧請・社殿造営したと思われる記述が残されている。
地域を開発した産土神の社殿造営で人心を懐柔し経済振興を仕掛けた・・・。
上の写真はまことに古格な英賀神社社殿であります。
鳥居も横架材が掛けられていないで2本の掘立柱だけが立ち、
その間に「注連縄」が連結させてあって「結界」を構成している。
よく見ると社殿本体には上向き湾曲の注連縄もあって、目玉風の仕上げ。
合間から本殿建築が表情を覗かせ、
「唐破風」成立以前の建築様式を感じさせるファサードデザイン。
以前、このブログで神社建築の「ギョロ目デザイン」を書きましたが、
建築デザインにプラスして注連縄が「神さまが見ている」みたいな印象を
正対する人間に受け取らせるように仕掛けられている。
この英賀神社は、かなり古格な神社で、「縁起書き」にも、
英賀の地を開拓開発した古神男女2体英賀彦と英賀姫が書かれ、
伝承的な産土神信仰対象であったことが見て取れます。
1443年頃壮年期の家系の「三木通近」は、河野水軍瀬戸内海海上勢力で
その重要拠点として播州「飾磨湊」の支配権を確立することで
瀬戸内海の物流を抑えようと考えたと思われる。
讃岐地方から麺類の製法ももたらし地域産業振興を図ったとの家系伝承。
播州は「揖保乃糸」が有名で福崎の三木家でも「もちむぎ麺」にゆかりがある。
中世社会において武家という専門職意識は希薄で、たぶん自覚はしておらず、
商業にしろ工業、流通業にしろ地域振興が最大の「勢力」源泉だった。
経済と軍事・政治は一体的不可分であったと思われる。
河野「水軍」というのは戦時における「組織形態」ではあるけれど、
平時には海運流通を担う商業者ネットワークというのが実態。
商業者は、各地の在郷勢力と物流交易関係で深く結びつき、
その物資集散拠点として「湊」の支配を大きな勢力源泉とした。
三木氏は播州でこの飾磨湊を拠点化し、内陸水運要衝であった「英賀」も抑え、
地域の守護勢力、赤松氏と関係を深めていくのですが、
そのことと軍事的な能力云々とは直接関係がないと思われてならない。
まぁ経済を抑えているので、専門的軍事力は傭兵的に雇用していたか?
活発な水運流通展開が一族の主目的と思われる。
中世を通した経済発展「瀬戸内海物流ネットワーク」との繋がりこそが
在地の守護家・赤松氏にも、在郷の庶民にとっても非常に有益で重要だった。
支配を地域の人心に納得させ、平和的に受け入れさせるために
この古格な産土神信仰を利用しその振興に取り組んだようなのです。
社殿造営でさまざまな「産業」が刺激され、利益を地域経済にもたらした・・・。
どうも記事中の三木氏は、武家でこの地を「軍事的に制圧した」というより、
商業者的に、懐柔的に支配を進めていったように思われるのです。
中世史は軍記物より、地域経済史的解析の方が実際的ではと思う由縁です。
Posted on 7月 18th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 古民家シリーズ
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