今回の新型コロナ禍は日本人の衛生意識について
「建築的」にも大きな気付き、再認識を促したのだと思う。
これまでは生活習慣、文化の問題として建築的には詰めて考えてこなかった。
玄関という言葉は、「玄関」とは「玄妙の道に入る關門」。
「關門」っていうのが字自体なじみのない字だけれど「関門」でいいらしく、
① 関所の門。また、関所。
② 通過するのに困難を伴うところ
というように意味が読解できるとされている。
文化的には道教とか禅が日本に導入されたときに成立した概念とされるけれど、
言葉としての「言い表し」だけの問題のようで
日本人本来的な文化習慣としての「靴脱ぎ」を意味表現したものとは思えない。
そうすると、日本人の住空間史から考えた方が自然なのではないか。
千年家(せんねんや)として有名な兵庫県の箱木家住宅は数回訪問現認したが、
土間から「上がる」空間というのが、歴史的初源経緯のような気がする。
それは板の間であったりタタミの間であったりの「居間空間」に
土間から「上がる」タイミングが「靴を脱ぐ」習慣に繋がったのだろう。
いまは西洋的な「靴」だけれど、一般的には「草鞋」であり、
それを脱いで、「上がれ」と家人が言って従う一般文化の由だろう。
日本人は土とか埃、芥というものを「穢れ」と考えて
それから隔絶した空間を家に仮託したというように思われる。
他人の家に「土足で上がる」という無道を表現したりもする。
ハダシの足の裏で感じる板の間とかタタミの間が日本的「結界」を構成した。
そういえば草鞋を脱ぐときには足を洗う、拭うという動作も付随した。
「足を洗う」という言葉にも、穢れからの離脱という意味合いが籠もっている。
このあたりに日本人の「結界」意識がどうも凝集しているのではないか。
日本ではヤクザから「足を洗う」という表現を使うけれど、
世界有数の被害を出したイタリアではマフィアから離脱するのに
どういう表現言語があるのか、知ってみたいとふと思う(笑)。
というか、家の中でも靴を脱がない習慣世界では
そういう「清浄世界」意識というのが育たなかったのだろうか。
今回の世界共通体験を通じて、この靴脱ぎ習慣について
建築の世界では大きな変動が起こるような気がしている。
もし日本式の生活文化習慣を導入したいと考えるひとが世界で増えたりすると
この「結界」認識がどのように変容して伝わるのかも
大いに興味を持つべきところだと思っております。さて。
Posted on 5月 30th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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