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【明治13年 ロシア式ログハウス導入と挫折】


北海道住宅始原の旅、明治13年頃の黒田清隆主導の表題の件。
開拓使というのは、薩摩閥の政治的指導者・黒田清隆の個性が強い組織。
かれは、箱館戦争を終結させた明治2年5月以降いったん東京に凱旋して
結婚したあと、引き続き政治軍事的な「北方担当」であり続けた。
明治3年当時には開拓使次官・樺太担当としてロシアと現地交渉に当たった。
8月から10月まで樺太現地に滞在していたとされる。
外交的にはかれの下僚となった榎本武揚が領土交換的な決着を図るけれど、
同時にロシア風の防寒住宅工法であるログハウスを実見したようだ。
その後、北海道の開拓建築基本方針として「洋造」を決定する。
明治4年前半、自らアメリカ欧州を歴訪しケプロンなどと「教師」契約を交わし
基本的には北米の「開拓指針」を採用することになった。

だけれど、そうして出来てきた北米的な建築群に対して
必ずしも住宅建築性能的には満足はしていなかったのだという。
そこで実見してそのいごこちを体感していたログハウスに強くこだわり、
明治11年8月と12月、開拓使営繕の技術者・小林芳五郎などを随行させ
本格的にロシアログハウス技術の実証実験、導入を図った。
のちの総理大臣の軍事政治中枢人物が、自ら建築性能について
強いテーマ意識を持ち続けている。いかにも明治革命政権らしい。
「札幌沿革史」には黒田清隆自身が屋根を葺いたという記録も残っている(笑)。
高価な鉄釘に換えて安価な竹釘を使うことにしようと下僚と相談していて
いきなり開拓使直営工事の「工業局製造場」の屋根3坪ほどを
自ら屋根に上がって施工してしまったと驚きの声が記録に残されている。
諸外国アメリカやロシアで住宅建築を実見してきて、
近代的建築についての知識は専門家をもはるかに超えていたのだろう。
このあたり自ら1級建築士に任じた田中角栄をも彷彿とさせるものがある。
イマドキの政治家では福田康夫首相が辛うじて「200年住宅」を政策として唱え
住宅に興味を持ったが、黒田は自ら建築技術の取得に動くキャラを持っていた。
かれのDNAが、地方政府となった北海道の行政にもはるかに遺伝して
今日の全国的にきわめて特異な高断熱高気密住宅運動になったともいえる。

で、明治12年から13年にかけて写真のログハウス建築が札幌に建てられた。
規格大量生産の「篠津太・雑木丸太積屯田兵屋」18棟を含めて
全部で24棟のログハウス建築が建てられた。
しかし試みの着想はよかったけれど、現実には失敗に終わった・・・。
コスト面では在来的な工法である琴似屯田兵屋群と比べて3倍近かった。
また当初はロシアから招いた職人に施行させたけれど、暖炉積みなどで
「まっすぐなところが少しもない」ようなことだったとされる。
このあたりロシア人の不器用さを当時の世評は言っているけれど、
日本とロシアの許容範囲の違いであるのか、あるいはわざと技能の劣る
アバウト技術者を派遣してきたものか、機微に属することもあり不明。
さらに当然できるログ材同士の間の空隙はロシアでは「コケ」が埋めて
年を経ていくと石のようになるけれど、
彼我の風土性の違いなのか、日本では材自体の乾燥収縮の大きさに対して
その空隙を埋めるタイプのコケが存在しないのか隙間が埋まらなかった。
日本の木は収縮乾燥度合いが彼の地よりも激しくコケも種が違う可能性が高い。
またロシアでは乾燥した土地柄か、木材をそのまま地面に積みあげるけれど、
日本ではそうすると地面からの湿気を吸い上げて腐朽する。
住宅はその土地柄、風土性への適合性がきわめて重要な要素を占める。
こうした「実証」の結果「はなはだ不適当」の烙印が押されてしまった。
黒田清隆さん、意欲はよかったけれど、惜しかったですね(笑)。

<写真は「藻岩学校」と「雨竜通露国風丸太組家屋」〜北大DBより>

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