人間が暮らす環境を構成するのが家の意味。
人間的に生きるということの実質とはなんだろうかと、ふと考える。
いまは、わたしは札幌とそれ以外の地域との交互環境にいます。
札幌では住宅があり、そこでの経過時間は「住まい」の実質。
それ以外の地域ではホテルという「暮らし方」になる。
それはそれで、まったく違和感を感じてはいないし、
なるべく定点的な「定宿」感覚のホテルを選択していて
それなりの「くつろぎ」を得ているので心理的には「帰る」感覚もある。
あるひとから「疲れそうだから、マンションでも借りたら?」と言われたけれど、
個人的には一度そういう経験もあって、そのほうに違和感があった。
結局家族と過ごす、なにか「共生」ということが、
どうも人間的な生き方の実質のように思われます。
そんな風に考えると、「家庭」というコトバに気付く。
家庭はいうまでもなく「家+庭」というふたつが合わさった概念。
現代では人間は「移動する」という概念がかつてなく高まった生き方になってきた。
移動手段が格段に環境進化を遂げてきている。
コストパフォーマンスも大きく進化を遂げてきている。人間の生き方で
定置的な生活と移動狩猟とのふたつが同時に実現できるようになった。
そうなると、この「家庭」というものの価値感がもっとクローズアップされる。
共生、というコトバを使ったけれど、
家族という人間関係だけではなく、植物などとの関係も
人間の潜在的意識領域ではけっこう大きな部分を占めている。
庭木を眺め、その息づかいを感受しながら生きるということには、
相当大きな意味合いがあり、そういう価値はむしろ高まっている、
そのように思われてなりません。
写真は、いま関わっている建築の外壁と庭木の表情。
幾何的な造形である建築と対比的な自然木の表情が
あるコントラストの美観を訴えてくる感覚がある。
外構設計者に聞いたら、その背景になる建築の外皮とどう調和させるか、
「会話」させるか、というようなことを考えながら樹種を選択すると。
そしてその四季折々のシーンを想起しながら、作業を進めると言う。
「むしろ、樹皮とその形状だけになる冬場の骨格だけの時期こそ・・・」
というようにデザインするのだとされていた。
庭木の側がそのように「寄り添って」来るように配置されてくると、
人間の側では否応なく「共生」感覚が強くなっていくでしょう。
世界の中で、たったひとつかけがえのない場所が「家庭」となって出来上がってくる。
そういうのが人間環境のやすらぎの大きな領域。
都市的な高密度な環境がせめいでくる現代であればあるだけ、
むしろこういう環境との「対話」の意味が高まっていくのだろうと思います。
Posted on 4月 6th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.