さて、わたしの歴史好き、現在は古墳の時代でとどまっております。
先日来、上野国〜かみつけのくに〜の豪族とおぼしき
博物館を見学して以来、
日本という国号が命名される以前の歴史過程が
大変面白く感じられてきています。
現在の高崎市の周辺、榛名山の裾野に
その地域の豪族と見られる前方後円墳があるのですね。
で、まずは単純になぜにこういう大規模な墳墓が作られたのか?
やはり、稲作農業の進展と言うことと、
地域の開発ということが同時に進行して行くに際して
大規模な農業土木技術が欠かせない要件となってくる。
この時代の中で、特異な人格として登場する仁徳天皇、
倭の五王といわれる朝貢の最初に出てくる「讃」は、かれだと言われますが、
このひとは、大変な農業土木を行って、
それまでは、低湿地で水郷的な地域であった
河内地方を灌漑工事で、豊かな農業地帯に変えたといわれます。
そして、日本最大の陵墓を前方後円墳で作っている。
古墳の時代というのは、日本の稲作集団農業という
経済基盤が、大いに全国に拡大していった時代だったと思われる。
で、その道具として鉄器の需要が高まり、
その鉄生産技術をもとめて
朝鮮半島での覇権争奪に参加し続けるような時代背景だったのではないか。
大規模な農業土木って、単純にスコップのような鉄器がなければ、
まず無理だと思うのです。
そういった先進技術の伝播と引き替えに、
各地方に割拠していた、地域開発権力・地域豪族と取引して
「ヤマト王権」という基盤を作っていったのではないか。
このような鳥瞰を持つと、
古代史で、出雲地方が特異な地域であったわけもわかる気がする。
草深い列島社会である日本地域と、
鉄を生産する先進地域である朝鮮半島地域ともっとも近く、
たぶん、独自の王権形態を取っていたのだろうと推定される。
朝鮮のように記録できる漢字文化があれば、
たぶん、日本国内には多くの独立「国家」があった状態だったと思う。
各地域での小さな王権は成立していたけれど、
それらが、基盤にしたいと考える「正統性」の担保をもとめて
さまざまな合従連衡をやっていたと思われます。
なので、倭の五王は、中国皇帝権力をその材料にしたのでしょう。
いずれにせよ、略奪可能な剰余生産物の蓄積ができる
稲作農業経済の進展が、いろいろな権力層の変化を促したのでしょう。
で、倭の五王から日本という国号を定めるような
段階まで、さまざまな曲折を経てたどりつくのではないかと思います。
ひょっとすると仁徳って、
秀吉や、田中角栄のようなキャラクターだったかも知れませんね。
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Posted on 5月 29th, 2010 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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