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【太陽神崇拝としての日本神道信仰痕跡?】


2年連続で訪れた淡路の地。たいへん気候が温暖で
なんといっても、海を架橋でわたる体感が気分よくわが家的お気に入り。
今回は元気の良い初老夫婦の二人旅でしたので、
行きたいなと思う場所をごく自然にたどってみると
結果としては神社仏閣の類に歴史の痕跡をたどるような行程でした。
そういうなかでも、この淡路の「伊弉諾神宮」にはやはり惹かれる。
北海道にはこういう類の史的痕跡はなかなかない。
そういう一種のエキゾチズムを感じさせられる。
「イザナギって、どう考えても神話、つくり話だろう」という近代日本常識、
いわば、そういう思想体系で北海道はいるように思う。
で、その神宮の庭で写真のような石版を見入る。
この伊弉諾神宮を起点にしての日本神道の主要「配置図」だという。
それによると、太陽の季節毎の移動軸線上にあるのだとされている。
いわく、この神宮の同緯度には、伊勢神宮内宮と対馬国一の宮海神神社があり、
古代の飛鳥藤原京があったとされる。
また、夏至の日の出、日の入りの方角にはそれぞれ、
信濃国一の宮・諏訪大社、出雲大社があるとされている。
さらに冬至の日の出、日の入りの方角にはそれぞれ、
熊野那智大社、そして高千穂・天岩戸神社が配置されているとしていた。
たしかに日本神道は、抜けがたく太陽信仰ではないかとは思うけれど、
さてこの「配置図」はそのまま受容して良いのかどうか?

ちょうどマチュピチュの古代文明の検証番組を
正月のBS-NHKが放送していて、古代には農業の「施政方針」として、
太陽の運行を精密に把握することが権力には不可欠だった、
そういう趣旨の番組を視聴していた。
天文「科学」知識と権力機構が深く密接に結びついていただろうことは応諾できる。
人類の文化発展で、農業の科学的管理はそのエンジンではあっただろう。
とくにマチュピチュでの農業は高地でのトウモロコシ栽培であり、
ほかの普遍的作物、コメや小麦以上に繊細な気候予測が必要だった可能性は高い。
一方、ニッポンでは皇祖神・アマテラスは読んで字のごとく天照。
日本では基本的な人間集団組織形成の初源は弥生以降、
コメ生産に特化した「ムラ社会」が基本であっただろうことは疑いがない。
それ以前の縄文や海民による狩猟採集経済とは違う「科学的」根拠を持っていた。
その科学とはすなわち、天文知識による季節把握だったことも蓋然性がある。
そのように考えれば、この「神社配置図」にも、一定の周縁的根拠はある。
しかし、遠距離での配置がどうやったら可能かなど、
しっかりとした「解読作業」は不可欠ではないかと思わされた。
さらにいまの神道に太陽の季節運行についての「科学性」残滓はあるか、など
そういう裏付けがないといわば、牽強付会・ネタの域は出ない。
そもそも伊弉諾神宮は朝廷から、『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日条で
「伊佐奈岐命」の神階が無品勲八等から一品勲八等に昇叙されている。
逆に言えばそれ以前には、鄙の「島神」とされていた事実がある。
ただブログの「正月特集」ネタとしては、許されるかなぁと思った次第(笑)。
可能性のあるユニークな説とは思われますね。どうなのかなぁ?

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