ここは初めて訪れたことは間違いないのですが、
この空間に立って見て、まったくそんな気がしなかった。
この石舞台は、本来、古墳に収められるべき石室が露頭しているもので、
制作された年代も日本に中央権力が芽生えはじめた時期。
したがって、石への加工にも鉄器が利用されていた。
けっして石器時代の社会技術によって造形されたものではない。
そうではあるのですが・・・。
日本歴史において、飛鳥から奈良の都造営に至る時代は、
初めて経験するような経済成長の時代だったとする説がある。
アジア各地からの活発な移民の増加、米作耕地の急成長、生産の拡大。
日本列島はまさに東アジア世界にとってフロンティアであって、
社会全体が若々しく前進していく時代だった。
のちの世でヨーロッパに対してのアメリカのような存在として
当時のアジアの中で日本社会は、そういった気分が充満していたとする考え方。
歴史学者でもないので、そういった説を検証することはできないけれど、
飛鳥から奈良にかけての時代の独特の「明るさ」というのは感受できる。
そういった時代の「建築」として、この石舞台は感じられる。
その作られた目的からすれば墳墓であり、もっと呪術的とも予想したけれど、
予想をはるかに超えていて、安藤忠雄的な気分も感じさせられた。
安藤忠雄が右肩上がりの戦後社会の雰囲気をコンクリートで表したような、
そんな同質性を感じさせられた次第。
石と土木で自然に立ち向かっている姿はまぶしいほど。
さらにいえば、わたし自身はコンクリートブロック造の住宅に住んでいるので、
素材の質感において同質性を感じさせられ、
建築としての類縁性を深く感じさせられる部分があるのです。
外観としては不定形の自然に返ったような印象でありながら、
その石室空間内部は、天井に空いた空隙からの光や雨だれもありながら、
しかしその水路や浸透性も考えられているに相違ないと思われる
建築的営為、合理的空間性が感じさせられるのです。
この建築の目的は死者への追悼ではあっても、
しかしむしろ、悠久への回帰とでもいえるような「建築的意志」を感じる。
敷地利用においても、南面傾斜面を利用していて、
西側への開口だけれど、その出入りも開放的。死者ではあれ住居として
ある思想的裏付けのある「設計思想」ではないかと妄想させられた。
わたしとしては、遺跡見学と言うよりもむしろ、
時空をはるかに超えた「住宅取材」をさせていただいた気分で、
すがすがしく、また立ち去りがたい余韻を深く感受しておりました。
Posted on 9月 19th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 古民家シリーズ, 歴史探訪
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