ようやく大長編、それもあんまり好きではない近現代史ものでしたが、
司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」、読み終わりました、ふ〜〜。
読後の感想は、やれやれ長かったであります(笑)。
Kindle版なのに5400円もするという全8巻構成。
読む進めていくうちに、近現代の戦争の連続の歴史に対して
いかに自分がそれを知ることを忌避してきたかが、わかった。
現代の支配構造とも具体的に繋がってくるので、
いまを生きているひとたちの利害関係が即座に直結してくることから、
やはり踏み込みにくいのだということがよくわかる。
司馬遼太郎さんは、第2次世界大戦での従軍経験があって、
その敗戦に至る戦争指導に対しての強烈な反感をカラダに持っている。
であるけれど、明治国家、日露戦争までのそれについては
それこそ「坂の上の雲」を目指していた少年国家として
愛惜の念を持って語っていると思います。
士農工商という身分制度が固定化されていた江戸社会から、
少数の士族階級のなかで、それも薩長の少壮士族たちが領導する
明治維新が成立して、明治国家が生まれ出た。
そのことは、大航海時代以来の欧米社会の「発展」が帝国主義段階に至り、
とくにアジアでは陸軍的侵略として、ロシアの南下膨張との対峙が
非常に大きな、地政的な基本的国際関係として存在した。
他の欧州各国は、海軍的あるいは経済侵略的脅威であったのに対して
対ロシアにおいては、より死活的な陸軍的脅威だった。
維新首脳部の少壮士族たちは、そういう圧力の中で近代「国家」を作った。
かれら「列強」の弱肉強食的で生々しい帝国主義国家間争闘が
基本的な国際ルールという環境条件の中で明治国家のスタートがあった。
帝国主義国家と、それ以外の支配略奪される地域という国際関係しかなかった。
白人種が支配することが当然の「公理」であった世界。
そのなかで国家体制の大転換、封建支配から「国民国家」へと
ふつうの人が国家の成員であると自己認識し、はじめて日本人であると思った。
戦争の記述が大部分だけれど、そのなかに印象的なシーンがある。
宮古島のふつうの5人の人々がバルチック艦隊をはじめて発見したことを伝える
決死としか思われない「奉国」、国家に対する国民の義務として
石垣島までの往復という数日間の決死行で伝令行動をはたす件がある。
そしてこれを「国家機密」であると言われ、その後数十年も箝口しつづける。
家族・妻にも言わなかったとされていた。
帰路、生存帰還が絶望的になり、遺さざるを得ない幼い子どもと妻のことを思い、
ただただうずくまってしまった男性の事実の記述がある。
こういうところから、近代国家日本は生成されてきたという実感に打たれる。
そういう民のさまざまな「無私」から始まったということが胸に刺さった。
Posted on 11月 25th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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