法隆寺というとあまりにも定番すぎるけれど、
最近は「法隆寺」という高速ICまでできているので、
他の目的地の途中で、ついこの名前を見てしまったのです(笑)。
当然高校の修学旅行などで、見ているようにも思うけれど、
それがどんなものであったか、いまは記憶も定かではない。
そう気付いてしまえば、結局住宅や木造建築のことが
人生の大きな領域になってしまった経緯が、高校時代の自分からみて、
なんとも数奇なようでもあり、また自然なようでもある。
また、仏教建築自体は繰り返し各地で見続けてきていて
そういった既視体験も踏まえて、違うように見えてくる部分もある。
今回見ていて、やはり木造の技術について
いろいろなポイントがあるのだなと魅入られておりました。
ヒノキを使って、大量のエンタシス造形や建具などに仕上げる技術と
その他、社会的工程管理などの部分に深く想像力を刺激された次第。
裳階(もこし)と呼ばれる「下屋」部分を見上げると白く彩色されている。
寺の方に聞いてみたら、白土に膠のような展着材を加えて
作られた塗料ではないかと推測されているとのこと。
この白い彩色は、いったいどんな効果を狙ったものなのか。
五重塔や金堂の最下端に加えられたことから考えれば、
白く敷き詰められた玉砂利面からの反射光を跳ね返している。
結果として、五重塔や金堂建築本体の視覚的コントラストを
より一層際だたせるような意匠装置として機能している。
しかし、基本的な機能要素は、建築本体への構造補強と
風雨による劣化対策でもあったこともあきらか。
そういった「用」としての機能性を果たさせながら、
なお、デザインとしても見事なバランス感覚を見せ、
五重塔が、実は六重に見えるまでに美の要素になりおおせている。
そして本来の五重塔のその最下部に付け足されたものなのに
配置感覚には、驚くほどの精妙さを感じる。
さらに開口部の建具(写真撮影不可)は、大木をタテにスライスした
1枚の大きな用材から彫刻されて造形されたものだそう。
法隆寺の造形の一つのパターンを構成しているタテ「垂木」が嵌められた
建具に開けられた連子窓も、
そのように彫刻技術的に造形されたものになっている。
垂木が建具本体の用材から切り込みされたものであることも
さわって確認することができました。
径の巨大な柱やこうした建具用材に掛けられた人知や営為を想起すると、
この「斑鳩」の地は、大和川の河川交通の要衝とされていることと
合わせて考えてみて、古代社会が可能にした
「公共的」建築システムの巨大さに圧倒される。
しかし発願としては聖徳太子の「私寺」としてスタートした
この民族的建築事業への傾斜のすさまじさがはるかに迫ってくる。
かの時代での技術とデザインの建築の才が総動員されたことが明瞭。
東アジア世界を覆っていた律令という国家生成システム、
それを裏付けていた世界宗教としての仏教への導入の国家意志。
そういったいわば「文明への参加」へのこの国の人々の
意志力の大きさもまた、深く迫ってくるものを感じました。
Posted on 8月 30th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
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