北海道に生まれたわたしが、一番関わることになった
それ以外の地域が、東北です。
まぁ、首都圏地域にも学生時代を含めて8年間ほどいたのですが、
主に仕事で主体的に動き回れるようになって
関わることが大きくなったという意味合い。
そういうなかから、生来の歴史好きが目覚めてしまって、
東北の各地域を巡り歩くようになり、
知らず知らず、考えるようになります。
ようするに、歴史的にも地政学的にも「東北の中心ってどこ?」という点。
今はもちろん、仙台がそういう位置を占めているのは事実。
伊達「陸奥守」が江戸期を通じて存在し続けてきているわけですし、
幕末では「奥羽越列藩同盟」の盟主にも伊達氏がなっているのですから、
近世においては仙台が中心となっていたとは言える。
しかし、日本史のはじめ頃から繰り返されてきたのは
仙台平野地域までの日本の権力範囲に対して、
それ以北の地域住民の反抗の歴史。
仙台平野までは、古墳が残されたりしていて、
比較的早くの時期に日本の生活文化様式を受容していたと推定できる。
しかし、その時期には多賀城が王朝の現地中心地域であったことは明白。
地政学的にも、多賀城に伊達氏は入城すべきだったのではないかと思われてなりません。
しかし、その多賀城も、どうも中心とは言えない気がする。
歴史的に見ればやはり、東北という概念を初めて権力としても
明らかに現出させたのは奥州平泉の藤原氏政権。
基本的には王朝国家の体制の中での現地軍事警察権力を握る形で
相対的に独立的な権力を樹立した。
伊達氏が仙台平野を中心とする60万石程度の地理的支配範囲だったのに対して
「白河から外ヶ浜まで」という、現代の「東北」に相当する地域を
概念上も、明示的に支配していたと言えるのです。
東北を代表する大河、北上川を水運として活用して、
関西の日本中央地域とも物流・情報とも直結していた。
現代の地図で見ても、平泉の方がはるかに「へそ」に位置する。
さらに歴史的に見て、北東北地域にその権力基盤を持ち、
それ以南の地域に対しても、中央権力との調和という形で存在していた
奥州藤原政権の方が、「東北」という概念に親しい。
いま、世界遺産の登録審査が近づいてきていますが、
この平泉地域がより正当な評価を得るためのひとつのステップになり得る機会ではないかと
密かに期待している次第です。
って、東北地域に対してはエトランゼな人間なのですが、
でもだからこそ、歴史を知れば知るほど、
このような思いを強くしてきているというワケなのです。
<写真は、仙台城の復元想像パノラマ>
Posted on 5月 5th, 2008 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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