札幌でのわが家は、毎年のように建物がリフォームで変化していました。
昭和30年に移転して、昭和36年には全面的な建て替えも行いました。そのころには「もやし」が主力商品でしたから、その育成室(むろ、と呼んでいた)の温熱環境コントロールが事業そのものの生命線だったのです。
写真は製品加工場として使っていた玄関正面のひろい土間ですが、育成室はこの左手奥になります。
当時の最新建築工法である「コンクリートブロック」工法を採用して、寒冷地建築としての基本要件、「気密化」をすることで、もやし育成に必要な「安定した温暖な室内環境」を実現したかったのです。
こんにちも基本は変わらないでしょうが、もやし育成には、ちょうど熱帯のような室内気候条件が不可欠なのです。
必要とする大量の温水は北ガスに勤務していた伯父のアドバイスとあっせんで、「コークス」を使用して火力の強いボイラーを使っていました。また、育成室の暖房には「練炭」を採用していました。
この練炭というのは、直径で12〜3センチの円筒形でくりぬくように空洞が何本か開けられていました。
火持ちがよいので長時間火力が持続できるし、発生する二酸化炭素が、植物であるもやしにはよかったのだと思います。
しかし、冬期などなかなか商品のできばえには好不調があり、この育成室内でもやしの様子を、夜通し父は見ていました・・・。この過酷な空気環境が父の肺をむしばむ結果となりました。
北海道に大量に存在する火山灰を加工成形したコンクリートブロック建築は、当時の知事が先頭に立って地域に適した建築として推奨し、地域の住宅作り運動となっていました。そのことで政治家である人(田中知事さん)が日本建築学会賞を受けるというほどだったのです。
しかし残念ながら、この工法は断熱の方法で致命的な誤りがあって結露の発生をまねき、北海道の住宅建築のメインからは、ほどなく退場していくこととなります。
こどもながらに、父と建築業者さんとの工場建築についての真剣そのもののやりとりの様子が、いまも耳に残っています。
Posted on 8月 17th, 2005 by replanmin
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