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多賀城碑文

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多賀城 京を去ること一千五百里
     蝦夷国の界を去ること一百二十里
     常陸国の界を去ること四百十二里
     下野国の界を去ること二百七十四里
     靺鞨国の界を去ること三千里
此の城は神亀元年(七二四年)歳は甲子に次る、
按察使兼鎮守将軍・従四位上・勲四等・
大野朝臣東人の置く所也。
天平寶字六年(七六二年)歳は壬寅に次る、
参議東海東山節度使・従四位上・仁部省卿・
兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝、修造する也。
     天平寶字六年十二月一日
さて、本日は歴史探訪編です。
東北を歩くと、いろんなところでこの碑文と巡りあいます。
拓本が飾られているケースが多い。
奈良期にこの「日本国家」の最前線国家施設として多賀城が築かれたことがわかる。
当初はこの碑文、偽作説もあったけれど、
いまは正規の歴史資料として公認されています。
で、このなかに先日のブログでも触れた北方アジア沿海州の
「渤海国」について触れられている。
表記としては、靺鞨〜まっかつ〜国という民族名として記載されています。
当時の1里は約535mとされていたので、
この国までは、1600kmほど。沿海州のたとえばウラジオストックまでの距離と考えれば
おおむね符合する。
当時の国際感覚として、こういう国の正規機関の記録に
明記すべき国家として、認識していたということ。
それだけ、活発な交流が行われてきたということを証し立てていますね。
日本の歴史記述の中によく登場する奥州の名馬、
というものは、どうも、奥州で生まれた馬ではなく、
この渤海国から、輸入されてきた大型馬のことのようだという説がある。
沿海州ーサハリンー北海道ー十三湊もしくは秋田、というルートを
常に陸地を左手に見ながら、安心させながら馬を運んできたと想定されるのです。
かれら民族からすると、もっとも安全なルートを通って
もっとも繁栄した経済圏の最短の地域が、東北北部西岸だったのでしょう。
そこで、もっとも珍重された交易品が馬だったのではないか。
その馬を、東北北部のひとびとは
近畿を中心とする日本国家との交易の最有力商品として使った。
織田信長なんかも、大喜びしている記述がある。
なんていう、雄大な古代世界の交流の様子が、
古代人たちのこうした記述記録から、伺えます。
北方アジアと、列島北東部との社会の交流の様子、
もっと、深く知りたいものと念願しているところ。
朝鮮、中国との国際関係だけではない、
もっと多角的な視点というものをもたらしてくれるのでは、と思う次第です。
みなさん、いかがでしょうか。

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