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飢饉の時の食

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八戸という地域からは、江戸期に安藤昌益という
思想家が出ています。いつも便利なインターネットの百科事典、
Wikipediaで調べてみると、
安藤昌益(あんどう しょうえき、元禄16年(1703年)−宝暦12年10月14日(1762年11月29日))は、
江戸時代中期の医者・思想家。秋田藩出身。
陸奥国八戸で開業医となるが、宝暦の頃、出羽国大館に帰郷。
身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張した。 特に著書『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じる考えとされているが、無政府主義(アナキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられる。発見者・狩野亨吉をして「狂人の書」と言わしめ、レーニンをもうならせたという。
後に在日カナダ大使であるH(ハーバート)・ノーマンの手により、『忘れられた思想家—安藤昌益のこと』が記されることで周知の人物となった。
ということなのですが、なぜ、こうした人が出て、
こうした思想を持つに至ったか、その背景と言うことに
これまで、考えが至りませんでしたが、
ここのところ書いている、江戸期の八戸の苦難に満ちたありさまを見て、
深く理解できたように思いました。
写真は、破綻した農業経済のさなかで、命をつないでいった民衆が
生き残ってきた、そのもとになった食を展示していたもの。
結局、経済社会が破綻すれば、自然の元に還って、野山に分け入り、
およそ、食せるものすべてを食いつないでいくしかありません。
ワラビや葛、トコロの根を掘り、トチ、ナラ、クヌギの実を拾い集め、
ヤマゴボウやうるい(ギボウシ)などの草の葉をかき集める暮らしだったようです。
飢饉の時には、味噌はとくに重要な食品になったという。
青い葉物を食べるときには、下痢による脱水症状や全身が腫れ上がって
死亡するのを防ぐため、かならず味噌で煮るように、という口伝があった。
味噌の塩分が、カリウムを中和するのだそうです。
(・・・って、そこまで決心して食べるんですね)
基本的な自然条件で言えば、稲作を基本とする
ヤマト政権の農業経済構造に似合わなかった北東北地域は、
それゆえに、長く「まつろわぬ」人々の地であったのだと思います。
東北の歴史は、長い日本国家との緊張関係の歴史でもあった。
そもそも気候条件が違う地域に対して、それを克服するための努力をせず、
その結果が、こうした飢饉を引き起こしてきた側面が大きいのです。
その意味では、こういう問題はいまでもあると言えるかも知れませんね。
深く考えさせられます。・・・

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