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八戸藩での自然環境破壊

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きのうも書いた八戸、南部の江戸期の辛酸について。
冷涼な気候というものが、
人々の暮らしを苦しめてきたというのが、単純な歴史の真実です。
こんにちでは、わたしたちは多くの研究努力によって
あたたかい住環境を獲得し、農業やその他の産業分野でも
冷涼な気候というものは克服できてきたのですが、
それはこうした惨禍の上に立って、その教訓に立って、
出来上がってきた歴史なのだという思いがしてきます。
しかし、単純に冷涼な気候だけではなく、
どう考えても、惨禍は社会的に生み出される、
という側面が大きいのだ、とも思わざるを得ません。
きのうの天明の大飢饉に先行して、
八戸地域では、当時の新ビジネスであった
関東・野田のしょうゆ産業の原材料供給地として大豆栽培を藩が
総力を挙げて取り組んでいました。
そのために農民の主食であった、ヒエなどの生産耕地を焼き畑して、大豆畑に変えたのです。
そのことは藩の産業振興として理解できるし、
こんにちの、たとえば夕張などの観光産業振興などとも類推できる。
しかし、写真のイラストは、そういうプロセスの破綻の様子を描いていますが、
1 野山を焼き払って大豆畑にする。
2 畑は、2,3年で次の畑に移動していく。
3 残された、もと畑に残った根茎を掘り起こして食べて餌にしてイノシシが大発生した。
4 数が増えたイノシシは、こんどは作物が実った畑を根こそぎ、食い荒らして
農民たちに大被害をもたらした・・・。
というような非常に明確な、自然生態系の破壊が
人為的に作り出されていったようなのです。
こういう社会経済的な矛盾が、冷涼な気候によって、より増幅されて
日常的に飢饉が発生するシステムが形作られていたのです。
しかし、コメに依存できない八戸藩の農業生産は
その1/4が大豆の収益になっていた、ということで、藩の権力は
農民たちに、それでも強制的に大豆生産をやらせていたのだそうです。
逆に言えば、こういう災禍のうえに野田のしょうゆという新産業は成立していた、といえます。
ひるがえって今日でも、さきほど触れたような夕張の例などもあり
冷涼な気候とか、乏しい経済力の地方が、
生き残っていくということの厳しさを、あらためて認識させられます。
発展する都市と、荒廃する地方、というような社会システムの縮図のような
事例だったのだと、思われますね。
なんとも、胸がふさがれるような思いがしてきます。
そうならないように、地方は元気を出していきたいですね。
ケースはすこし違うけれど、がんばれ、「そのまんま東」知事さん!
っていうような気持ちが、地方住民としては強く起こってきます。

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