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天明の大飢饉

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若干の取材空き時間があったので、八戸の博物館を先日、訪れた。
そこで、目を奪われてしまったのが
「天明の大飢饉」の惨状を伝える絵や展示。
東北北部を悩ませる寒冷な気候のもたらす惨禍をリアルに伝える、すぐれたドキュメントでした。
写真は展示中の、江戸期の出版物「卯辰飢饉物語」からの挿絵です。
以下、展示からの紹介文。(一部要約しました)
「餓死万霊等供養塔裏側に刻まれた碑文の内容」
1778年の頃から、ここ数年の間、耕作は良くなかった。1783年、天明3年の大飢饉のようすは
4月11日の朝に雷が強く鳴って、ヤマセ(北東の寒冷な季節風)が吹き、
大雨が降ってから、8月晦日の暮れまで雨が降り、9月1日、しばらくぶりで晴れた。
夏の間、ずっと「綿入れ」を重ねて着なければならないほど寒かった。
このため、田や畑の作物が実らず、青立ちのままだった。
人々は毎日、山へ登り、わらびの根を掘り、海草や山草はもちろん、
イネなどのさまざまな茎を粉にして食べたりした。
翌年になると、領内すべてで収穫がなく、はやり病が流行し、多くの人が餓死し、
死人が山のようであった。
城下や村々では、毎日のように火事があり、押し込み強盗などが多くなった。
しかし、新井田村(この碑の所在地)では出火はなかった。
領内の総人数65000人あまりのうち、30000人あまりが死んだ。
家は272軒のうち、136軒がつぶれた。
これまでにないことである。これからはコメや穀物などを貯えておきなさい。
という記述。
それにつけられた挿絵が写真のものなのだけれど、
餓死した馬を食らっていたり、倒れた人をむさぼっている野犬のようすなど
目を覆うような悲惨な光景が描き出されている。
言葉に出来ないようなようすが想像できるシーンも描かれている。
人口の半分が餓死する、というまことに過酷そのもの。
つい200年ちょっと前まで、こういうことが現実であったのですね。
こういう気候不順にともなう冷害が、北東北地域ではひんぱんだった。
しかし、展示で初めて知りましたが、こうした飢饉の遠因には
江戸中期以降、勃興した関東地域の野田の醤油産業に対して
それまでこの地方の農民の主食であった冷害に強いヒエ畑を変えて、
原料となる大豆の生産を農民たちに強制した、南部藩の経済政策があったそうです。
というような記述を読めば、
まさに生きた経済と、その社会システムがまざまざと実感できてきます・・・。
願わくば、先人たちの経験と知恵をわれわれはよく知って、
よりよい社会を構築していかなければならないと、思いますね。 
まずは、惨禍に死んだ先人に、合掌。

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