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北方から見る日本の歴史

仕事で、いろいろな住宅を巡り歩くウチに
当たり前ですが、
そこにはそれぞれの生き方があって、人間が暮らしている、
っていうことが、みえてくるようになるものです。
そして、個性的に生きたいというような住宅を見ていて、
より「人間」的な部分を、住まいから想像するようになります。
そうすると、時間を超えて、
古民家などに、「取材」的な態度で接するようになってくる。
よく見ていくと、こういうことは、
細部に明瞭に現れたりしてくるようになる。
そういった発見が、面白くなってきて、
古い人間痕跡に、興味が募っていくようになる。
まぁ、そんなことから、写真のような復元住居も好きになっていったのですね。
これは、天塩にあった檫文時代(日本の平安期にほぼ相当)の
竪穴式住居です。
周辺は、日本最北の大河・天塩川河口であり、
漁業的資源には事欠かなかった場所。
そして、カヌーのような丸木船や、外洋航行も可能な船も操っていた
かれらにしてみると、生活の拠点としては
まことに好立地なのですね。
この時代には、すごい大きな集落が営まれていたのではないかと、
想定されています。
ちょうどいまの時代にわれわれがクルマを操るように
かれらは、自由自在に船を操っていた。
そして「交易活動」は、狩猟採集と並んでかれらの基本的営為だった。
日本史の記述でも、
秋田地方や、宮城県地方などに、
この時代の北海道人が来襲したとする記述が見られる。
交易活動には、トラブルも付きものだろうし、
そういった利害関係を清算する意味合いの戦いも多かったと思われる。
かれらは文字を持たず、歴史を記述する意志を持たなかった。
アジアの歴史の中では、中国に発祥した文字記録の世界・社会が
北方「蛮族」と対峙しつづけて来たのが基本的な流れだったと思われるけれど、
日本史においても、その要素はあったと思う。
ただ、元や清のように中華に王朝を樹立するような動きではなかった。
そういうものは、かろうじて、
平泉藤原氏が、そうなる可能性を持っていたけれど、
日本においては、そのようなダイナミックな動きはなかった。
けれども、北方との関係は常に日本史の中で、
ある一定のレベルの影響をもたらしてもいた。
そういう部分が、これまでの日本歴史記述の中に十分に反映されているとは言えない。
そんな思いで、
ひたすら、北方の世界の発掘にこころが向かっている次第です。

さて、本日は帯広で講演を頼まれまして、
これから、クルマを駆って出掛けます。
きのうは、季節外れの雷、雨という天気でしたが、
まだ、北海道、ことしは雪の訪れが遅いようです。
でもまぁ、慎重運転で行ってきたいと思います。

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