<明治天皇山鼻屯田通輦図>
<明治天皇北海道上陸から札幌行程図>
北海道は開拓から150年ほどと、もっとも新たに国家に組み込まれた。
それまでの日本歴史での最北の地・東北は「まつろわぬ」人々の地として
「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」という意識から不幸な歴史時間を持った。
東アジアの「国家」意識にとって「中華」思想は抜けがたい基本思想であり
征夷ということが自らの存在意義であるという潜在意識があったのだと思う。
中央集権的なヤマト朝廷体制が列島社会に伸長していくためには
外敵の存在が必要でありそうした歴史営為の結果、国家が成立したともいえる。
そのような「征夷」概念の延長線で、武家による政権も成立し、
アジアとしては奇跡的で純粋な「封建社会」も実現した。
・・・そういう国家意識からさらにそれを再度、高める必要があったのが、
幕末明治の歴史時代だったのだといえる。
そのときもっとも喫緊な地域と認定されたのが、対ロシアの防衛ラインとしての
北海道の地。東北地域とはまったく違うカタチで日本史最前線に登場した。
このようなことは日本国家の中央集権化「統一」時期以来のことであり、
開国・近代国家建設が国家政治での中核的関心事になった。
その歴史時期にあたって青年天皇・明治帝は優れた素質を持たれていたと思う。
伝統的な京都御所の御簾のなかに神秘的に存在する天皇から
近代国家建設の象徴としての君主像にふさわしい行動的資質であった。
薩摩藩の政治指導者・大久保利通が、幕末にこの若き君主を行幸として
はじめて大阪湾での海軍艦艇閲兵に連れ出したときその目の輝きを見て
「この君なれば・・・」と万感のよろこびを感じたとされる。
その大久保の感慨の意味合いは、こういう政治目的だっただろうことはあきらか。
国家建設に行動する君主像を民に刷り込んでいくことが、近代日本の基礎。
・・・そしてシンボル化した北海道の国土経営開拓の明治帝による視察とは
明治の政権にとって重要なターニングポイントだったと思う。
<お召し列車「開拓使号>
時限的に設立された「中央省庁」開拓使のその最終期にあたって、
炭坑の発見経営に乗り出しており、同時に活発な殖産興業政策で
札幌では数多くの官営工場が稼働してきていた。
近代国家建設にとって、まことに中核的な事業の推進だった。
この明治帝の「巡幸」にあたって、青森から船で小樽・手宮に上陸され
このためにわざわざアメリカに発注した「お召し列車」を、開通なった鉄道に走らせ
明治帝を開拓の首府・札幌にお迎えした。
たぶんお召し列車はこのような風景の中を走って天覧に供したのだろう。
新橋-横浜路線とはまったく違う、国家意志による大自然を克服しての鉄路。
そして上の絵「明治天皇山鼻屯田通輦図(1881年)」のように藻岩山の麓、
札幌の開拓の様子を馬上からご覧いただいた。
明治帝にとっても死後、北海道神宮に神体として祀られたことが不自然でないほど
この地のことを深く思われたことは間違いがないだろうと思われます。
日本と北海道とは、たぶんこのような出会いと歴史経緯だったように思える。
坂の上の雲を追った時代が確実に存在したのだ。
Posted on 9月 27th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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