毎朝の散歩道、札幌のイマドキは12-3度程度の日も増えてきます。
昨日などすっかり肌寒いほどの気温低下ぶり。
しかし、高齢のみなさんを中心に、そのお孫さんとおぼしき年代も
毎朝、北海道神宮前でお掃除ボランティア、ラジオ体操と元気な姿が見られる。
そういうけなげでかわいい様子にすっかりゾッコンのわたしであります。
で、いつもの散歩道にはドングリなどの落果が目立つようになって来た。
また、それを狙ってたくさんのリスたちがあちこちで俊敏にうごめいている。
ヘタをすると足蹴にしてしまうかもしれないほどにたくさん見かけます。
そんなふうに足下に注意を払いながら歩いているとふと写真のような光景。
「おっとっと・・・」と蹴飛ばさないように咄嗟に道を横に取っておりました。
わたしの散歩目的は運動量確保なので一定速度が習慣づいている。
で、なにげに通り過ぎてから、その光景の残像が目に焼き付いて離れない。
20-30mほど過ぎてからやはり気になって引き返してみた次第。
即座に「これはだれかが表現したものではないか」という判断があった。
そうですね、小さい子どもたちにとって落果の季節はそのオドロキから
それを拾い集めるのが一般的・人類初源的反応パターン。
たぶんネイティブに近い人間精神の発露なのではないかと思います。
で、それは「アート」の起源に近い行為であるに違いない。
戻ってみて、その「作品」を謹んで写真に撮影させてもらった。
基本の構図はドングリで表現されているけれど、
なんだかよくわからない堅果類が左側に流れるように配置されている。
ドングリたちはどうも「流動線」を意識したような配置のされ方をしている。
堅果類を囲むようにも配置されている。
そして、右手側には可憐な白い花々が添えられているではありませんか(!)。
見た感じではハート型を意図したようにも受け取れる。
この全体の配置バランスは、なかなか惹き付けられる(笑)。
白い花と茎の緑が、ドングリ・堅果の色と対比的でお互いを引き立ててもいる。
この「表現」の仕方にはなぜか強く「女性的感受性」も感じさせられた。
「おお、いいじゃんこれ」であります(笑)。
ちょっと立ち去りがたい思いもあったけれど、後ろ髪を引かれながら離れた。
想像すれば、たぶんいたいけな少女がドングリの姿カタチに魅せられて
それを夢中で集めて、堅果もついでに発見ゲットした。
で、その感動のままに道路をキャンバスにして配置する原初アートに取り組んだ。
「こうしたらカタチがオモシロいかなぁ・・・」と考えながら。
で一応の構図が固まったけれど、そこにふと視線の先に白い可憐な野花があった。
ドングリとその白い花のコントラストが彼女の表現意欲を刺激した。
夢中で花を摘み、「どこに置こうかなぁ・・・」
というプロセスで、このアートは完成を見たのではないか。
この表現に向けた素材収集・配置での構想持続力はまさにアートパワー。
わたしは朝7時前くらいにそこを通りかかったので、たぶん制作はその前日日中。
少女はたぶん完成を見届けた後、お母さんに呼ばれて現場を去ったに違いない。
それから約半日以上、ここを歩いた人たちはこれを目にしただろうけれど、
わたしと同様に、注意深くこの作品をリスペクトして残置させた。
誰も足蹴にすることなく、作品は一定数の人々に鑑賞の機会を与えたに違いない。
そんな風に考えると、朝から「いいものを見た」気分に浸ることが出来た。
さすがに翌日朝には跡形なく作品は姿を消していたけれど、
見知らぬ少女と楽しく対話できたようなうれしさがこみ上げてくる。
作者が大きくなってからもしもこの写真を発見したら、という想像も楽しい(笑)。
Posted on 9月 26th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: こちら発行人です, 日本社会・文化研究
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