きのうの投稿【住むだけの家と町家・民家との乖離感】には、
土曜日の投稿にも関わらず、多くのみなさんから興味を持たれたようで、
たくさんのコメントをいただきました。以下、要約すると・・・
●松井郁夫さんからは、
〜確かに民家の暮らしが、しっくりするのだと思います。
古民家の人気も、潜在的にはそこにあるのかもしれないですね。
●北海道の設計者である山本亜耕さんのコメント。
〜例えば「実家は八百屋です」とか「父は大工でした」などと言うと、
詳細を聞かずとも人となりや暮らしぶりが窺えるように感じるのはなぜ?
反対に「父は生産部門で製品管理が生き甲斐でした」とか
「金融係のアナリストが天職です」などと言われても
直ちにそれらを想いうかべるのは困難です。
なんだか商家と専用住宅の関係のように思います。
●堤 太郎さんからは、
〜本当は、住まいを語るのに「家単体」で語る、という事の方が
イビツなのかも知れませんね。
その地域性、コミュニティ、インフラその他諸々含めて
住まいが、人の生活があるという事は分かりきった事なのに。
新築住宅を提供する者は、長期優良だろうがパッシブハウスだろうが、
将来に渡りその地で住まい手に利益を供し得る存在意義があるのかどうか、
という命題を突き付けられている時代ですね。
●有本博英さんからは、
〜現在存在する職の大多数が将来AIに代わってしまうなんて、
哀し過ぎる社会ですね。経済の肥大化が人間生活の無味感を
引き起こすなんて、笑い話にもならない。それならば地域社会での
経済の完結を目指した方が、なんだか人間的にしあわせなのかもなんて、
時代錯誤的な思いを持ってしまう。
たぶんみなさんの声は、
まだ不分明だけれど現代住宅が抱え込んでいる「非人間性」の
ある部分をえぐり出しつつあるのではないかと思います。
前時代までの住まいには、ひとの「生きる実質」が社会的共通認識として
大前提で明瞭に存在し見えていたのに、今は無名性の方向に流れている。
むかしは、家における「父性」がその「生き様を背中で示す」ことが
ごく当たり前の風景として家に存在できたけれど、
いまは「ゴロゴロ横たわっている」存在としてしか、あり得ていないのかも。
社会の中で格闘しながら、生きがたき世を必死に生きているのに、
お父さんは家の中で、そういう背中の片鱗も見せられなくなっている。
そういった、生き様の開示による人間教育効果という
たいへん大きな、失われた「家の機能」への気付きがなさすぎると思う。
こういう家に住む時代は、親にとっても子どもにとっても不幸ではないか。
もちろんこういう、住宅性能でもなくデザインとも言い切れないテーマは、
ひとり住宅建築だけが背負い込む問題とは言えないけれど、
さりとて、広い意味での人間居住環境の提供という社会的職責から考えて
無視し得ないことがらであるような気がしてなりません。
Posted on 7月 3rd, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.