きのうの続きですが、タイトルは変えました。
写真は復元された「遣唐使船」だそうで、上海万博に展示とか。
白村江での唐・新羅連合軍への決定的敗北は、古代史でも最大の国難。
とくに唐の先進的国家力にふれて、深刻な国難を意識したに違いない。
かならず唐の軍事的侵攻があると焦燥し、ときの大王継承者・天智は
数年間、即位することができなかったとされています。
その後、天智から天武へと王統の交代事変、672年壬申の乱も起こり、
天武の即位にいたって、ようやく権力の体制が固まり、
天皇位を新設し即位した天武は、古代的中央集権国家機構を樹立した。
そして同時に世界宗教としての仏教を招来させ、
律令と仏教興隆との両輪で、新しい国家・日本を成立させていった。
国司の派遣・地方支配と国分寺建設は不即不離の国家建設構想。
その国家意志が、より積極的な「遣唐使」派遣という形になっていった。
それまでのいかにも「東夷の国」という響きを持つ「倭国」から
「日本」という国号変更も、外交交渉で唐王朝に認めさせている。
そういった対唐朝貢外交が百数十年後の、
この804年の空海の遣唐使でも継続している。
中華の文明の徳を慕って来たる東夷の若い国が日本だった。
この遣唐使に於いて空海は日本人として未曾有の成功を収める。
当時の長安で密教の第一人者であった第7代の「恵果」から
第8代の法統を嗣ぐものとして、密教のすべてを伝受した。
この時代に限らず、世界に通用する日本人として「国際人」であった。
唐の皇帝にも謁を受け、その筆を愛でられたとされる。
空海は宗教者であると同時に、書に代表されるように
芸術者・文化人としても一級の国際人だった。
遣唐使船が難破して上陸した地で、一行は海賊とみなされ扱われたが、
空海が大使に替わって上表文をしたためたところ、
即座にその上表文は皇帝にまで意が通じ、一行への扱いが一変した。
東夷の島国から来た空海は、その当時の唐でも文化サロンの
中心にすぐに席を占めることが出来たとされるほどの才に恵まれていた。
日本が生んだ天才の嚆矢とでも言えるのかも知れない。
その国際人の目線で日本に臨んだはじめての日本人ではないかと、
司馬遼太郎さんは、書き綴っている。
まだ草深く、未熟な「国家社会」である極東の小国家・日本は、
こうした段階を経過してきたのだという事実を知らされる思い。
国家社会の急速な発展を目指して、わたしたちの先達は
若々しい熱情を持って、こうした「文化受容」に邁進してきた。
その律令と仏教思想による鎮護国家政策をひたすら信じて驀進していった。
空海個人のことを考えれば、そのまま長安で生きる方が幸せだったかもと
司馬さんは、そんなふうにも表現している。
しかしなぜ日本は、朝鮮のように冊封という形にならずに済んだのか。
中国皇帝に対し、なんども「小中華」を志す底意を見せ続けた。
中国に対してその国家機構の導入・文化摂取という姿勢を持ちながら、
一方で距離を保ち続けようとした少年国家としての
日本のありようは、ある意味、いじらしいまでに感じさせられる。
Posted on 5月 11th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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