北海道の自然豊かな場所で、住宅設計者が
周辺の豊かな自然を取り入れた開口部計画を立て、
たとえば、印象的な山の容姿を四季折々、眺められる窓を計画し作る。
その家を訪れる「客」は、そのことを褒めるけれど、
当の建て主は「山なんて、どこでも見れるべさ・・・」と、謙遜もあるけど、
ほぼ興味なさげに、そのことに多くは価値を認めようとしない。
っていうようなケースは、北海道でかなり多い。
で一方、関東以南地域では、住宅密集度がまったく違うからか、
一般人レベルで緑への渇望感がきわめて強い。
東京下町を歩けば、涙ぐましいほどに植木が公道にまで並べられ
敷地のちょっとした残余に緑を植え込もうとしている。
こういうすれ違いはいったいどういうことを表しているのだろう。
一方で、日本人が好きな都道府県ではいつも
北海道が好感度いちばん、というように喧伝される。
でも北海道人に限って聞き取れば、たぶんその答はどうも違うように思う。
わたしは東京での生活を学生時代から8年間くらい経験している。
カミさんは北海道でずっと生活してきている。
夫婦でも、このことへの感受性の違いを感じさせられる。
わたしは、札幌都心の便利さは好きだけれど、
やはりやや郊外で、落ち着いた住環境がいいと思うが、
カミさんは、どっちかというと、
都市的な賑わいとか、無機質感にむしろ憧れている気がする。
自分が鄙であると認識しているから、むしろ、そういう憧れを持つのか。
住まいの置かれた環境が、自然豊かと受け取るか、
それとも、鄙丸出しでつくづくといやになるという意識もあるだろう。
都会生活のなかに日常がどっぷり浸かっていれば、
自ずと自然とか、緑への希求が強まっていく。
さてこの問題というか、人間意識の2分化はある。
家の「やすらぎ」として、緑の果たすべき役割がいったいどうであるかという
家を建てる人間の「やすらぎ意識のマーケティング」ということができる。
北海道では、この緑の問題は同時に
雪とクルマという2つの大問題とも密接にからんでいる。
そして中間的グラデーションの世界にいる東北にも関わっている。
東京的庭いじり、下町的観葉植物通りという習慣は
北海道では長く白く閉ざされる雪の冬という与条件下で、
意識としてなかなか成立しがたいものがある。
そういう条件下でさらに、日々の暮らしにクルマは欠かせず必需に近い。
敷地や周辺環境に緑が多く、それは春になれば遠慮無く旺盛になる。
見たくなくとも、見渡す限り山は緑一色になっていく。
そういう環境では、人間は家に対して、そのやすらぎの中心的価値感は
もうちょっと違うポイントに抱くようになるのも自然かも知れない。
このこと、住宅マーケティングに於いて
なかなか奥の深いテーマだと思い知らされるものがあります。
<写真は花芽が芽吹いたクンシラン>
Posted on 5月 12th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング
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