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【空海さんに見るアジア・日本の文化社会発展史 1】

2908

住宅という本論とは違うテーマです。お許しいただきたいと思います。
連休中、司馬遼太郎さんの「空海の風景」を読了できた。
この著作は、1975年ころの単行本発売当時書店で立ち読みしたけれど、
どうにも時代背景も話題の展開の仕方も、
たいへん難解そうで、とても読み進める知的な基礎体力が
20代半ばの当時の自分にはなく、読書挑戦を諦めていた本でした。
最近、昔よく読んだ司馬遼太郎作品の電子書籍になっているものを
ダウンロードして読む機会が増えてきています。
雑誌以外は紙の本の読書から電子形態に、読書習慣が変化してきて
ちょっとした時間のすき間でも、iPhone⇒Kindleというように
紙の本よりもはるかに連続して集中して読むことが出来るので
知的好奇心の幅と深さが増してきていると思っています。
現代人は過去の人たちとは違って、圧倒的に「移動」する存在。
時間の感覚は、非常に細切れ化しているので、
いちいち、書棚から取りだして移動に持参するという
一冊の紙の形態ではむずかしい。うっかりと忘れるという機会も増えていく。
寸暇が出来たときにも読み進められる電子環境というのは
人類知の段階がもう一歩進んだのではないかと思量します。
移動時に全部(現状ではそうなっていないが)興味分野を持って歩ける
というような環境というのは、人類未到の段階になったと言って過言でない。
ただし先述のように、雑誌は基本的にビジュアル的訴求媒体なので、
集中力の性質的に電子形態メディアには移植しにくいと考えています。

さて、横道逸れが長くなりましたが、司馬さんの空海「論」であります。
この本の中で司馬さんは繰り返し、千年も昔の人間の息づかいにふれる
難しさを語り、小説というかれの本業表現に至らなかったとしている。
気分として「風景」というタイトルを使った意味合いが伝わってくる。
しかし司馬さんに触発され、「遣唐使」という日本社会が取った営為について、
わたしには、その意味合いからして立ち上ってくるものがありました。
空海は、最澄と同時期に遣唐使として唐最盛期の長安に804年に行った。
日本社会が、政治的に「国家」形成し社会的に「文化文明」を導入しようとした、
その最先端の光源としての地に、決死の覚悟で向かう熱情を思わされる。
日本の航海技術からして、この当時はまったく世界に後れを取っていた。
遣唐使のほぼ半分は難破してしまうという時代に、
文明の精華である「仏教思想」を命を賭して受容に向かった。
それに選ばれることも難関であり、帰り着くことも至難であった時代。
それだけ、日本という国家社会は揺籃のときにあったということ。
個人のいのちの重さというものの価値感は、時代によってもまったく違うし、
この当時の人々には、命を惜しむということよりも、
なお強い使命感が勝るということを思わされる。
ちなみに本を離れ、その当時の彼我の人口を考証すると
日本は平安初期で約550万人(上智大学教授・鬼頭宏さん資料より)
一方最盛期の唐は玄宗皇帝天宝14年戸籍登録人口、52,919,309人。
(中国の人口の歴史〜広島大学助教授 加藤徹さん)
というような推測数字を発見できる。
国家社会の生産力が養いうる人口規模がこの程度だった時代。
発展の基盤としての文化文明の導入は、まさに焦眉だったでしょう。
663年の白村江の戦いでの唐・新羅連合軍への敗退からの
国家的危難を経て、先進文明受容に向かった激烈さが立ち上ってくる。
国家機構を徹底的な文書主義に染め上げ、漢字言語すら導入した日本。
世界宗教としての仏教は、その文化文明の核心に当たっていた。
必死に文明化しようともがいていた国・社会だったと痛切に思います。
〜長くなりそうなので、あした以降に続けます。

<写真はWikipediaから。空海さんの「風信帖」の真筆だそうです。>

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