石炭の暖房のことを書いていたら、
それはそのまま、北海道での冬の暮らしのスケッチになることに気付きます。
石炭収納庫は、たいてい戸外にあったのですが、
今日出没しているという「石油泥棒」のような
石炭泥棒みたいな話は、聞いたことがありませんでした。
石炭が、北国での生存維持の不可欠要素であることが
共通認識として共有されていて、最低限のルールが存在していた気がします。
残念ながら、社会としての倫理観、
人間社会としての住みやすさという意味では、
あのような不便な時代の方が、勝る部分もあったのかも知れません。
ともあれ、石炭の時代から石油の時代に
世界規模では小さな、地域社会にとって見ればきわめて大きかった
エネルギー変換が訪れてきます。
自動車の普及による石油製品の需要の増加が、
この石炭から石油への変換には大きい要素だったのでしょう。
圧倒的にコストが違っていたので、あっという間に市場は変化していった。
しかし、今日の価値観で考えれば、
同じような化石燃料の使用であり、であれば地産地消という観点からは
もう少しオリジナルな産業的工夫はありえなかったのか、
やや忸怩たるものを感じます。
ともあれ、石油に「ストーブ熱源」の位置は移り変わった。
石油ストーブでは、火力も大きく初期には温風吹き出し型のタイプが多かった。
より大きな面積の部屋を暖房することができたけれど、
すぐに、空気流動にともなう室内空気質も問題になってきた。
暖房に使用する燃焼用空気を外気から取り入れて
排気空気もすぐに外に出す、という「FF式」が当初から出荷されていた。
それまでの冬の暮らしを支えていた「煙突」が家から消えていった。
かわりに、主暖房室周辺に吸気と排気の丸い突起が露出していた。
この頃から同時に、住宅性能についての研究努力が始められた、
というか、一般にも普及が始まった。
暖かい住宅はどうしたらできるのか、ということが
暖房の問題と同時に、住宅それ自体の問題であるという「常識」が
北海道民の一般的理解として普及していったのですね。
ちょうどそのころ、わが家では食品製造業の家業の生産施設として
温室的な装置の新築を考えていたのですが、
足繁く建築工務店さんが出入りして、最新の建築工法を取り入れていた。
「ブロックの家っていうのがいいらしい」
というような会話が交わされていたのを記憶しています。
そして、実際にブロック造の「むろ」と呼ばれる工場が建てられました。
わが家では「もやし」を生産していたのですが、
その育成には、高温多湿な室内気候条件が求められる、
それも一定の常温的環境が不可欠だったのですね。
当然、建築としての性能条件と、暖房性能の安定性というものが求められた。
しかし、そういう技術的成熟はまだ、求めても研究開発されていなかった。
されていても、大規模な生産システムとしては実用レベルではなかったのです。
とくに暖房熱源については、試行錯誤が行われていた。
結局、練炭を七輪に入れて使っていたのです。
広い育成室をくまなく一定温度にするために多数の七輪暖房を行っていた。
2酸化炭素が発生するのだけれど、もやしのためには、
むしろそれを植物として吸収する、とも考えたのかどうか。
ともあれそのような工夫を行っていた。
もやしは冬季用の野菜であり、まさに暖房と建築性能が必須だったのですね。
しかしそれでもなかなか冬期、安定的な生産はできなかった。
どうしても不安定な育成プロセスを監視するために
父は、このような育成室で寝泊まりするようなことも多かった・・・。
まぁ、そういうことが健康を害することにつながってしまったのです。
このテーマ、なかなか簡単に書き飛ばせるものではありませんね(笑)。
明日も続くと思います。
北のくらしデザインセンター
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Posted on 1月 4th, 2010 by replanmin
Filed under: 住宅性能・設備
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