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北方日本の暖房の歴史_2

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石炭による暖房って、案外その寿命は短かったと言えるでしょう。
わたしの記憶では、昭和40年代にはすでに石油に
メインの位置を譲っていたように思う。
しかし、石炭による暖房は、道民気質というようなものを生み出すのに
大きな役割を担っていたと思います。
火力に変化があって、強まったり弱まったりする。
なので、始終見続けていなければならない。
そういうわけで、基本的には「ガンガン焚く」という方向に行きやすい(笑)。
家の中にはストーブは基本的に1台だけなので、
居間に家族が集中し、それ以前の「採暖」形式である囲炉裏と
さして変わらない光景が展開していた。
大体家族の座る位置も決まっていて、それ自体で家族の一体感を演出していた。
家長は石炭を焚く位置、石炭投入口に面した位置に座っていたと思う。
わが家では少なくとも、父がその位置にいた記憶がある。
家族の越冬を支える責任者、というような無言の表現があったように思う。
来客があると、家長から見て左手近くに来客が座って、
母はその対面側に座って、ストーブの上に掛けたやかんから湯を取って
お茶を入れたりしていたように思う。
そういう意味で、「家制度」をそこに映し出す装置でもあった。
団欒、という言葉の実質の光景がまざまざと展開していた。
家の中には厳しい温度差が存在していて、
暖房室以外は、寝室の機能を果たすだけで、
子どもの勉強もその周辺のちゃぶ台テーブルなどを利用していたと思う。
そういうことなので、自然、兄は弟の勉強を見る、という光景もあった。
寝室に寝に行くのには、結構な決心が必要で、
気合いを入れて布団に入る必要があった。
そのため、よく「湯たんぽ」を利用せざるを得なかった。
暖房性能的に言えば、局所暖房であり、
室内から燃焼空気を利用するため、外気からどんどん燃焼用空気を導入していた状態(笑)。
要するに、どんどんと「隙間風」が室内に入ってくる「低断熱・低気密」の家。
ストーブに当たっているカラダの表側は火照るほどに暑いけれど、
背中側は常に新鮮外気にさらされている実感があった。
そういう状況が屋根面軒先に巨大氷柱となって結果する。
また、暖房を切った朝方には、家中の水が凍結しているような光景を生み出す。
家風呂の水が、凍って盛り上がっているのは日常茶飯事。
水道はもちろん毎日水を落としておかなければ、凍結してしまう。
朝起きたら、まずはストーブに着火しなければ生活を始められない。
一方で、そういう住宅なので、室内に漬け物などを置いてあってもまず腐ると言うことはない。
それよりも白菜の漬け物など、上に張った氷を割る必要があった。
手を切るように冷たい水を扱いながら、
朝ご飯の支度に向かっていた母の背中を見ていた・・・。
カラダは布団の中でぬくもっているけれど、
顔の表面にはうっすらと氷が張っているようにも感じられた(笑)。
衣服は頭の上に整えて置いてあった、
布団の中から、気合いを入れて起き上がって即座に着替えなければ寒くてたまらなかった。
まぁ、いま考えたらびっくりするような暮らしぶりの毎日だったのですね。
しかし、そういう厳しい生活だったから、
より一層、家族という共同体の意識は高いレベルだったのでしょう。
お互いを気遣い、助け合っていくことが生活の必須条件だった。
わが家の場合、その上、家内制手工業で食べていたので、
そういう生活プラス、毎日の仕事が朝起きるとすぐに始まっていた。
まぁ、毎日戦場のまっただ中にいるような生活だったんですね。
まことに厳しい暮らしだけれど、
いま思い起こしてみると、甘美な記憶とともに思い起こされます。不思議ですね(笑)。
そんなような住宅と暖房の状況が、石油暖房に変わって、
大きく変化していくことになります。<以下、明日へ>
北のくらしデザインセンター
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