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終戦直後、北海道住宅の窓辺デザイン

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きのう紹介した釧路の住宅について、北海道の建築史の駒木先生から
貴重な情報が寄せられました。以下、要旨を掲載します。
「この住宅は釧路・小樽そして東京のネットワークで保存されました。
米町の道路拡幅計画で取壊される予定でした。保存のため
釧路の本行寺住職・菅原弌也氏と釧路太子講頭・田中良一氏が市長に直談判。
一方、小樽から私が東京の毛綱毅曠さんへ連絡し、二人で
これまた直談判(ともに釧路出身です)。ついに市長は1989年
「ふるさと創生事業」として保存の予算をつけ、住まわれていた
田村さんの住宅も新築しました。めでたし、めでたし。
さて、創建は1900(明治33)年、棟梁は釧路大工職初代組合長で
釧路太子講の創設者・工藤恒吉です。」
ということでした、情報まで。

さて本日は、この住宅の続篇です。
というのは、写真のようなコーナーを発見して、
わたし自身の遠い記憶が呼び出されるインスピレーションを受けたのです。
わたしは1955年・3歳の時に岩見沢市栗沢町上幌という生地から
札幌市中央区北3条西11丁目という地に一家で移転しました。
この当時のお金で60万円で、北東角地の60坪の敷地に建っていた住宅を購入した。
戦争が終わって10年ほどの時期ですが、
考えてみれば札幌は空襲などの被害は受けていなかったので
不動産事業者・木下藤吉という屋号の企業(?)から購入したそうですが、
建てられていた住宅は、たぶん戦前から建っていたような住宅かも知れません。
寒い木造住宅だった・・・。けれど、一家の生きる拠点であり、
必死に生きていく思いが熱気のようになっていて、楽しい住まいだった。

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で、この家についての記憶がうっすらと残っているのです。
写真右手の出窓のような窓の部分が、
釧路で見た家の窓の部分のしつらいとそっくりだったのです。
わが家は、自宅兼用の「食品製造業」を営んでいたので、
建築は毎年のように手が入れられていて、
リフォームに次ぐリフォーム、というのが常態化していた。
じっくりと記憶痕跡に留める間もなく、内外とも変化していったのですが、
そのなかでも不思議と、この窓辺のデザインを憶えている。
出窓風の棚のようになった平面には、板が何十枚も渡されていて、
その板をはずすと、収納としても機能していた記憶がある。
高さは、ちょうど上の写真と同じような高さで、机かベンチ代わりになっていた。
父親が「事務所」的な空間として利用していたような気がする。

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ちょうど、釧路で見た住宅のこんな雰囲気。
思わず、この板をはずしてみたくなって、手を付けたけれど、
ここでは板は打ち付けられたようになっていて可動式ではなかった。

いま、住宅に関連する仕事をしていて
こういった内部デザインの痕跡のようなことにも
思いが至るようになって来て、どうにも気がかりになって来た。
こういうデザインとは、戦前から戦後の時期に掛けて
一般的に、というか全国的にも多く建てられていたものか、どうか、
あるいはまた、札幌での一般住宅の流通形態はどうであったのか、
建売が主体だっただろうと思われるのですが、
そうだとすれば、このような内部デザインはどうして選択されていたのか、
いろいろと思索が湧いてきて、拡散してきている次第です。
お読みいただいている方で、なにか、情報をお持ちの方は
ぜひコメントなどをお寄せいただければ幸いです。

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