きのう、わたしがずっと研究してきている北方日本の歴史についての
最新知見を満載した弘前大学の斉藤利男先生の著作の
読書感想を書いたら、以下のような反響がありました。
・奥州藤原氏といえば金が財源と言われていますが、
それだけではないはずですね。歴史の敗者ですから
勝者に都合の良いことが残っているはずですね。
斎藤先生の史観には興味をひかれます。
ということでしたが、まことにその通りであります。
そうでなくても日本語では、というか、
漢字文化圏では、一般的に負けると「敗北」と書いて、
けっして「敗南」とか、「敗東・敗西」などとは書きませんね(笑)。
だいたい北は負けるべき者にされてしまう傾向があるのか?
そもそも農業が広がると同時に、その記録のために
文字が発達したのだと言われますから、
当然のように北は荒蕪の地であり、
恵みの薄い方角であるとされる刷り込みが強いことを表していますね。
で、本題。わたしは北海道に住んでいるので、
その地域の「歴史」を掘り起こしていきたい興味がどうしても強い。
その願望にいちばん可能性があり得るのが、
この奥州藤原氏・平泉独立政権についての歴史経緯の発掘。
仕事で北海道から東北へと事業範囲を広げていった経緯もあって、
この平泉についての研究は、牛歩の歩みながら、
多くの知見ネットワークを、広げてきております。
きょうのテーマタイトルは、そんななかのひとつの大きな問題。
日本史で「将軍」というと、「征夷大将軍」というのが
歴史的な重さが強いけれど、その名詞の登場前後からのことを見ると
さまざまな「将軍号」があり、そのなかでも、
「鎮守府将軍」という号の方が、
すくなくとも鎌倉幕府以前で考えると、一般的だった可能性が高い。
奥州北部には日本国家権力が及んでいなかった時代、
陸奧守と鎮守府将軍は、兼任する例が多く、
それ以北のまつろわぬ民に対する武権として、
鎮守府が最前線軍管区として設置され、その長官としての
権力が、「鎮守府将軍」号であった。
そして、平家、関東、奥州と天下が三分されていた源平争乱期、
平家側から政治的懐柔策として
平泉側に、鎮守府将軍号が贈られることになったのです。
今回の著作を見ると、その「就任披露式典」が実に盛大に挙行されており
そのための権威付けのために城郭都市・平泉が
大きな堀の開削でショーアップ効果を上げただろう、土木工事跡の
発見についても開示されていました。
具体的な儀式での装束衣装の采配記録まで出土したとか。
関東に成立した頼朝と反乱軍団が、京都国家権力体系との
関係性をどうしていくか、決めかねていた源平争乱期に、
一方で、北方の平泉側にこのような政治的恩恵を与えていた。
その後、頼朝と国家への反乱軍団は、京都の政治的承認を得ることなく
この鎮守府を攻撃して殲滅し、
やがて「征夷」大将軍号を下賜され、鎌倉に「幕府」を開く。
違う見方をすれば、鎮守府将軍が「幕府」を開設する歴史も
日本にはあり得たかも知れないし、分権的な
状況がもう少し続き得たかも知れない。
なかなかに魅力的な歴史の断面が見えてくるワケなのです。
Posted on 4月 12th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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