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冬の遺跡探訪

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札幌郊外には多くの古い年代の遺跡が点在しています。
石器時代から縄文時代、続縄文〜アイヌ期まで
農耕が大規模に行われなかったので、
こうした古い年代の遺跡が残り続けてきたのでしょう。
逆に言えば、他の地域ではそういう条件がなく、
今現在も、そういう遺跡上に生活が営まれているのでしょうね。
冬の状況の中で、こういう遺跡の風景がどんなものなのか、
そんな思いも持っていたので、冬道、車を走らせてみました。
まぁ、遺跡とはいっても、現状の姿は再現しているわけでもなく
生活痕跡を探しても、たいていは埋め戻されているので、
何も残されてはいない、殺風景な状況が広がっています。
そんな遺跡のひとつ、恵庭公園遺跡の様子です。
っていっても、まぁ、冬の散歩道が続いているだけです(笑)。
この公園の中には川が流れているのですが、
現在は途中で途切れてしまっていて、
川にえぐられたようなやや谷地のような景観が確認できました。
こういう考古の探訪をしていると
周辺の自然環境というものに敏感になります。
現代生活のように、条件はどこでもそう変わりなく生活が出来るワケではなく
人間が暮らして行くには、いろいろな条件、
とくに河川のそばというのが絶対的条件であるという事実に突き当たります。
というか、北海道に暮らしてきた人びとは
どうも、交易活動がその基本的性向のように思います。
生活必需品である鉄鍋をまったく生産していなかったアイヌ社会は
成立の当初から、和人社会との交易活動を必須としてきた。
ちょっとこのあたり、信じがたい部分でもあるのだけれど、
シャクシャインの戦いが、その発端がアイヌの子どもが
鉄製品の補修を和人に頼み込んだことからといわれていることなど
どのような事情であったのか、暗示的でもある。
和人社会の側は、そういう製鉄の技術を伝統的に伝えなかった、
というか、教えることを禁じてきた歴史のようです。
でも、アイヌの側から製鉄技術を摂取しようという動きもなかったのか?
江戸期の松前氏が、一貫してきわめて防御的な土地に立てこもって
蝦夷地の開拓という方向に向こうとしなかったのは
そうすれば必然的に製鉄技術を教えねばならず、
そうすると、それが武器となって自分たちを滅ぼしにくる、
と、そう難く信じ込んできたからのような気がします。
和人社会がアイヌの人びとに対して
共存的に、かれらの経済的発展を図る方向を向いていたら、
もうちょっと日本の歴史は変わっていたものになっていたように思います。
少なくとも、多民族的な、連合国家的なものになっていただろう。
沖縄と北海道は、イギリスのアイルランドのような存在になっていっただろうと思う。
「単一民族」史観が、さまざまな国際的軋轢を生み出したことから考えると
もうすこし、「外交」の経験値の高い国家になっていたことは間違いがない。
そんな雑感を抱きながら、
しかし、爽快にさわやかな青空の下、
しばれる足下を踏みしめながら、歩き回ってみた次第です。
北のくらしデザインセンター
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