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太陽光発電は無条件の善か

1933

きのうは札幌市内で、公的な仕事の会議。
いわゆるエコといわれる設備についての「よき選択・使い方」がテーマ。
住宅関係が主戦場のエコ設備機器ですが、
今後、消費者トラブルがどのように予測できるか、
それに対してどのように対応していくべきなのか、
というようなテーマが設定されているわけです。
たぶんこのような設定自体、ある進行しつつある事態を想定している。
国の施策としては、断熱を推奨しながらエコ設備機器の
進化発展を促すというのが基本。
可能な限りの省エネを推進して、最後は太陽光発電(PV)で
それでも残る必要エネルギー以上を「生み出して」
ゼロエネルギーや創エネを実現しようというストーリー。
たいへんわかりやすい図式になっているのだけれど、
その大前提になっているのが、太陽光発電への信頼感。

家庭で必要なエネルギーを太陽から得るというのは
OMソーラーシステムをはじめ、住宅分野で多くの試みが続けられてきた。
そして不幸な原発事故以降、
やや過重なまでに太陽光発電に期待が寄せられて
いわば魔法の杖のように扱われてきていると思います。
いま進んでいる太陽光発電導入へのユーザー側の動機は
ほぼ金銭的なインセンティブ、補助金政策、高額な売電システムが
すべての前提になっていると思います。
そういうなかで、ユーザーに対して「選択の目」を提供することは
大変有意義なことだと思います。
この太陽光発電についてそのように考えるとすれば、
この金銭的なインセンティブ図式が、破綻した場合のことを
しっかりとユーザーに示していく必要があるのではないか?
現にいま、大規模な売電を前提とした大規模ソーラー発電に
各電力会社から、見直しを求める声が発せられている。
いまはそのことが焦点だけれど、
その先には、早晩、各家庭での太陽光発電についての売電も
論議の遡上に上っていくことは、想像に難くない。
現にドイツでは、ソーラー発電に関わる費用負担を
全電気料金に上乗せして、普及を促進させるという
国家としての政策が行き詰まりつつある。
太陽光発電で受益するひとの利益を、それとは無関係なひとの
電気料金でも負担させるという政策に無限性があるとは思えない。
日本では原発事故の経験から、論議が十分とは言えない中で
いわば当時の管首相の政治的判断でゴーサインが出され
いま、その路線が進められてきているけれど、
いずれにせよ、そのような政治的な動きだけで
振り回されている「エコ設備」論議にはムリがないだろうか?

政治的な「判断」で、太陽光発電の買電が停止され、
それまでに受益した人たちから不満が提起されたとき、
いま太陽光発電を無条件に善なるものとして
想定していて本当によいのかと、不安な気持ちがしてくるのは
はたして私だけでしょうか?

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