先日、ちょっと出来た時間で参詣してきた鹽竈神社であります。
現在では仙台市から、多賀城を経て塩釜までは
市街地がひとつながりになっています。
戦国の収束とともに、陸奥国を領した伊達家は、
それまでの伝統的な陸奥国の中心地、多賀城ではなく、
おもに防衛的な観点から、現在の仙台市の中心の青葉山に仙台城を築いた。
で、仙台で神社といえば、大崎八幡宮も知られていて
こっちは社殿建物が「国宝」指定を受けているので
社格も高いように思われているけれど、
本来的な意味で陸奥国の中心的神社は、一宮とされるこの鹽竈神社。
でも、なにか腑に落ちないものがある。
Wikipediaの記述でも(以下、要旨抜粋)
鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に
両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、
現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では
「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を
国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても
祭祀料10,000束を国家正税から受けている。
『延喜主税式』によれば当時の陸奥国の税収は603,000束、
鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ
伊豆国三島社2,000束、
出羽国月山大物忌社2,000束、
淡路国大和大国魂社800束であった。
これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、
同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。
また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く、
式外社となったことと併せて朝廷が
一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない。
<抜粋ここまで>
同様のことは、熱田神宮についてもあって、
かの神社も国家から「一宮」の扱いを受けていない。
神道は、王朝以来の国家施設管理機構であり、
その内部的な扱いには、それなりの理由があるのだろうけれど、
いま、詳らかにはなっていない。
歴史過程との対比で考えると、立地的に見て、
王朝国家の遠の朝廷〜とおのみかど〜としての多賀城国府と
一体的に運営されていただろうことは見て取れる。
よくわからない経緯があるのでしょうね。
けれど、創建の説話の「塩の作り方を当地に伝えた」というのは、
その当時、相当に大きな事態であったのは間違いないことだと思う。
塩を作るというのは、海産物の交易にとって基本的な産業革命だっただろうし、
たぶん、それの「大量生産」技術のようなものを
この地にもたらして、三陸の海産物を輸出商品とさせたのではないか。
そんな妄想をいだいています。
現在の社殿は、見て明らかなように安土桃山様式の大好きな
伊達家の気風をそのまま表したような金と赤と黒という
極彩色キッチュデザインであります。
単純に、わかりやすくて、楽しいですね。
Posted on 9月 28th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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