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能登半島西岸・千枚田

1741

棚田、という日本語の名詞がありますが、
北海道ではこの普遍的名称は通用しない。
というか、北海道ではお目にかかるようなことがない。
いまでこそコメの品種改良が進み、温暖化の影響もあってか、米作適地になったけれど、
歴史的にはもっとも条件のいい土地でも米作は困難だった。
当然のように、アメリカ農業人であったケプロンさんは
北海道開拓の指針・方針を検討するに当たって、米作をまずはじめに断念させた。
というような歴史的経緯があります。
だから、わざわざ土木工事をかけてまで悪条件の土地で田んぼを造作する
というような発想を持たなかったのが北海道農業。
なのでこの写真のような光景は、まず北海道ではありえない。

能登半島という地域は、
京都に対する「北国」としての越前地域の中でも
もっとも「北辺」に位置する地域のようです。
というようなことは、来てみてはじめて理解出来た。
越前というのは、「越」「高志」の国の中で都に一番近い地方、という意味でしょうが
その越前国のなかで、能登地域は発展が遅れた。
行ってみてはじめてわかったけれど、
能登の西海岸地域は季節風もきびしく、
農耕適地がほとんどなくて、
海岸線はこの写真のような急角度で海に落ちているような地形。
そういった地形のなかでも、なんとかコメを作ろうという
ヤマト朝廷的というのか、日本人的というのか
そういった強い民族的意識が、このような農業土木を決意させ
営々たる努力を注ぎ込ませてきた。
並々ならぬ歴史的な意志をそこに見る思いがして
なにやら神々しさも感じざるを得ない。
海岸線でのこのような地形はとくに、この列島に生きてきたひとの
「岬」などへの信仰ともあいまって、そんな意識を強く感じさせるものかも知れません。

東北仙台を起点にして
なんとか約600kmのロングドライブで、金沢に着き、
翌朝、さっそく能登半島を北上して、
歴史家・網野善彦さんの記念碑的な資料発掘で知られる
「時国家」に向かう道すがら、
この写真の光景に立ち止まってしまった次第であります。
しかし、京都が都であった歴史年代、「北国」という名前で呼ばれてきた
この北陸地域は、その文化性において、
北海道の日本人にとって、なにがしかのDNAを感じさせてくれるものが
風の音、潮の匂い、風土、暮らしのたたずまいの端々など
随所に感じられてなりません。
そんな奥深さを感じながら、旅を続けておりました。

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