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上時国家

1746

ワールドカップ初戦、残念でしたね。
でも、希望を捨てずにがんばれ、ニッポン!

時国家、という存在は網野善彦さんという歴史家によって
大きく知られるところとなった古民家。
わたしもその口で、網野さんの記念碑的な調査活動報告によって知った次第。
それは、日本の「百姓」という徳川身分制社会において常用された言葉が
一般的に「農民」と解釈されてきたことを覆して
言葉そのまま、種々様々な職業民すべてを表現している言葉だと
再発見させた、民俗学的なマイルストーンになった調査でした。
農業生産力のけっして高くない能登北部の地に置いて
江戸期に200人ほどの人口を支えていたと言われるこの「時国家」は
今日で言えば、総合商社的経済活動で生き延びてきたそうです。
そのなかには、「農」ももちろんあったけれど、
北前船の投資活動や、漁業活動などあらゆる「経済民」が
「百姓」という言葉で集約されていた。
その調査で、江戸期における経済活動の活発さが生き生きと活写されたのです。
そういうことだったので、北陸を訪れてなによりもこの「時国家」を見たかった。
それは民家研究という、わたし本来のライフワークとも符合する。

ということで行ってみたのですが、
やはり現地に行ってみると、いろいろな情報がわかってくる。
わたしの先入観は、前述したようなことだったのですが、
実際に来てみたら、この時国家は、
なんと平氏の大有力者・平時忠の子孫だそうなのです。
そこまで調べてはいなかったので、ちょっとびっくり。
源平騒乱の時代に関東方に捕らえられて、
この能登半島の北端に流刑になって、そこから幾多の時代を
かいくぐって生き延びてきた家だそうなのです。
その一族の中で、もっとも栄えてきたのがこの時国家。
時忠の1子の時国を先祖とする家で、平家を名乗るのをはばかって
名前の「時国」を姓として生きてきたのだそうです。
900年という時間を経て、この家系は生き延びてきたワケですね。
それも江戸期には北前船交易で巨万の富を築いていたというあたり、
さすがに海上交易利権、商業重視だった平家の末裔を感じさせる。
そう考えると、流刑地として能登の北端・珠洲が選ばれたというのも
鎌倉との交渉の結果として考えれば、
かなりいい選択を勝ち取っていたとも言える。
珠洲は、国際交易ネットワークのなかでも名前が出てくるような地域。
流刑の中では、比較的に恵まれていたとも言えるかも知れない。
権力を握った源氏嫡流のその後の推移を見ても
家系の浮沈というのは、
いっときの栄枯盛衰だけでは計れないものがあるのだと思わされました。

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