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移動の快適性と都市環境

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現代人を過去の人類と特徴的に分けるとしたら、
「乗る」という行動が飛躍的に増大した人類である、という説があります。
たぶん、1日の自分の行動を考えてみて、
それをたとえば、江戸時代の一般庶民の暮らしと比較してみれば、
すぐにでも理解できますね。
わたしの行動で見てみても、ちょっとした買い物でもなんでも、
自動車が必須の生活ぶりになっています。自宅からほんの200m程度の距離に
事務所があり、その前にセブンイレブンがあるのですが
そこに行くにも、どうしても車を利用しています。
子どもの時には、こういう距離は絶対に歩いていたものですが、
現代人と「移動」手段は、もはや切り離せないほどの関係になっているでしょうね。
日常的な都市生活、映画を見るとか、食事に行く、買い物をする、
といったごくふつうの行動でも、移動というのが前提になっていて、
消費行動時間を計画し、一日の暮らし方を考えている。
そして乗り物は、そのすべての局面で行動の必需品であって、
日常的な快楽感をもたらしてくれていると感じます。
公共的な電車や地下鉄などでも、基本的にそのスピード感がもたらす快楽、
次々と展開する都市の光景を眺める快楽、
雑踏の中の、ある種の無名性の開放感、
いろいろな姿形のひと、異性を見ることによる、スピード感の中の快美感など、
いろいろな要素で形作られているけれど、
そうした一切が、移動の中に快楽感として詰め込まれている。
たぶん、少なくとも、現代人は過去の人たちと比較して
視覚的な刺激とか、こういうスピード感において、すごい体験を
日々、享受しているのだと思います。
江戸時代でも、権力によって庶民の移動は制限されていたけれど、
それでも、宗教という隠れ蓑を使って、たとえば「伊勢参り」「四国霊場巡り」
などの移動・観光ツアーが大人気だったそうです。
移動することによる、非日常的な体験こそが、その快楽の根源的な要素だったわけですね。
ひるがえって、現代の都市には、そういう非日常性がふんだんに展開されており、
そのなかでも、その最大のスケールの首都圏では
たぶん、人類史上でも希有なくらいのレベルの非日常性快楽が存在している。
都市に暮らす、ということの快適性の中に、
こういう部分の「潜在的な快楽性」というものが、相当大きな部分を占めている、
そのように思えてならないのですね。
そして現代人にとっては、そういう快楽との「アクセス」という
ことのほうが、「住む土地選び」の大きな要素であるとも言えるのです。
一歩、家の外に出れば、豊富な興奮すべき快適性が存在するので、
そういう刺激に満ちた環境の中では、家に対する欲求も変わってくるのではないか。
どうも、わたしが首都のど真ん中で「ふるさと回帰」フェアに感じた違和感って、
こういう現代都市の刺激的快楽性に対して、
自然に帰る、みたいな単一に近いコンセプトで立ち向かおうとしているような
無力感を漠然と意識していた、ということのようなんです。
そりゃぁ、ドンキホーテじゃありませんか、っていうような。
たしかに豊かな自然には、ゆったりとしたリズムがあり、
そういうリズム感と時間感覚の中で、十分に充足できる暮らしの悦びはあるけれど、
さて、この現代最先端の都市快楽感のなかにどっぷりと浸かった人は、
そのように価値転換できるのでしょうか。
っていうような疑問点が、ふくらんできてしまったのですね。
で、こういう現代都市のなかでの暮らしのなかで、
現代の住宅って、いったいどういうことが求められていくのか、
というポイントになっていくのですね、わたしとしては。(笑)
このブログで、こんなことを書き連ねているのは、そういう目的です。
さて、さて、どんなふうに展開して行くのでしょうか、不安です(笑)。

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