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ありがたく押しつけられた、開放的日本建築文化

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昨日の続き。会津松平氏の庭園、御薬園の眺望。
園には、藩主が家来に賜り物などするときに使用されたという茶屋があります。
現在はそこで茶など振る舞っていただけ、庶民が楽しむことが出来ます。
やはり松平家ということで、かなりのゆとりが感じられます。
同じ地方権力者、封建貴族とは言っても、
外様の大名などは、ここまで贅沢なしつらいはしていないのではないでしょうか。
中央権力に対しての遠慮という感じはありません。
むしろ、奥羽や北越の外様諸藩に対しての抑えの配置であった
会津藩の勢威を誇示するかのような贅の尽くしよう。
現在は庭に面してガラスの引き戸が全面に入れられています。
昔は、緋毛氈の敷かれた外側は板敷きの縁で、
もちろん建具は入れられていなかったそうです。
この建物は創建当時から、冬場の対策は一切顧慮されていなかったようで
雪や寒さによる劣化の進行が著しく、
また、数寄屋建築としての構造造作材の繊細さなどから
早くも創建から80年ほどで、主体構造に対して大規模な改修が加えられた
という記録があるのだそうです。
これほど南方型の開放型建築であるので、もちろん
室内での冬期の環境などはいっさい無視された上、
構造の柱など、きわめて繊細で、冬期の会津の積雪には
とても耐えられなかったのでしょうね。
日本建築の特徴、数寄屋の精神性のみをありがたがって、
その建てられる地域の気候風土に対する配慮、というものが見られなかった。
なにやら、現在まで続く建物文化の素形があらわれています。
こういう殿様は、たしかに建物が壊れていっても
また修復するのに、民百姓から巻き上げれば良かったのでしょうから
そういう部分に気を使ったりしないのが
基本的なスタイルだったのでしょう。
日本は文化としては中央志向が大変強い国民性ですから
長く、こういう建築文化が存続してきたのでしょうね。
アジアのなかで、きわめて国際的にも高水準な封建システムを完成させながら
それが地生えの豊かな特色を生み出す方向には働かず、
民百姓に対して、おれらはこういう
ありがたい中央の文化を楽しむ特権階級なんだ、
という差別意識の誇示のために建築が作られてきたのでしょうか。
たとえば、会津の冬期の厳しい気候風土のなかで自分たちの贅沢のための予算を、
その気候生を克服して、あたたかい生活文化を生み出すための
研究開発費用として提供していくというような考えには
当然行かなかったし、そういう実学的な実用的な考えを持つ
よき君主も現れたりはしなかったのですね。
こういう厳しい寒さの会津で、なぜ東アジア一般の「暖房システム」
朝鮮のオンドルのようなものに技術開発が向かわなかったのか、
お金の使い方が、なんとも無駄だなぁ、と思いました。
ここは会津だろうが、冬に凍結した雪景色の池を
素寒貧なかっこうで眺めさせられていたのですか?
と、突っ込みを入れたくなります。
ありがたい中央の日本文化そのものを直輸入して
ふるえながら、少しの間だけ楽しめました、という眺望です。

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