きょうはどっちかというと、歴史断片篇。
近現代史というのは日本ではホント、きちんと教育されていないと実感。
明治にどっぷりとハマり込んで開拓使の建築事跡の掘り起こしを
最近の大きなテーマにしているけれど、高々150年前のことなので、
資料などはたくさん遺されていて客観事実はけっこう正確に掘り起こせる。
その事実から、現在に直接つながる昔人の思いが蘇ってくる。
とくに住宅を基本フィールドとしているので、
建築に遺されたよすがから、当時の人が何を考えていたかが再現できる。
いまはちょうど明治14年の時点での札幌の状況を
遺された「清華亭」建築を題材にして、この当時の札幌の
最大のインパクトを遺したであろう象徴的な出来事である
「明治天皇行幸」のことに思いを巡らせている。
建築は定置的なものであり、その空間から空気感を想像できる。
明治天皇の御代とは、日本が近代君主制国家となっていった時代。
現行憲法でも天皇は「国民統合の象徴」と位置づけられているけれど、
その骨格は明治に作られた基本政体だといえる。
逆に言うと明治帝のキャラがこのことに色濃く反映もしている。
それまでの武家政権とは違う時代なのだと民に諭す意味で
江戸時代260数年間、歴代帝は京都御所からほとんど外出しなかったが
明治帝は都合6回も大規模な「行幸」を行われた天皇。
六大巡幸は、明治5年(1872)の九州・西国、同9年の東北・北海道、
同11年の北陸・東海道、同13年の甲州・東山道、
同14年の山形・秋田・北海道、同18年の山口・広島・岡山の合計6回。
この明治14年7月30日から10月11日まででも実に73日間も行幸された。
上の図を見ていると、時代感覚が共振してくるような思い。
旅の行路として同時に鉄道事業開始が関連付けられるのではないかと思う。
日本最初の鉄道である横浜—新橋の鉄道にも開業前の明治5年7月に
乗車されている。このときも九州・西国の行幸時に利用された。
この明治14年の時も、青森から小樽に船で渡ってそこから新設された
鉄道を利用して札幌に移動されている。
しかし基本は馬を使っての移動だったとされる。
明治9年東北巡幸で明治帝は愛馬・金華山号を召されている。
少年期16歳で即位されこの明治14年で30歳という若さの帝であり
乗馬された彫像も遺されているので、自ら手綱を握られていたようだ。
その姿に民が接することで国民国家教化の意味もあったのでしょう。
新時代の君主として若さにあふれた明治帝が発散するキャラは、
多くの国民に明治という時代の空気を決定づけたことは、想像に難くない。
折からイギリスのブレグジット、アメリカのトランプ政権、
EUの低迷と、グローバリズムが衰退し世界で「国家」志向が強まる現代。
坂の上に雲をみつけそれを追った明治という時代が
発信してくる「国家」イメージが、興味深く甦ってくる。
Posted on 12月 30th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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