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【官府札幌始原期の判官命令「御用放火」】

さて、北海道の住宅史を歴史に沿って見始めております。
北海道での住宅の流れ、実像を掘り起こしてみたい。
アイヌ地名起源である琴似に屯田兵屋が建てられた
北海道での官制公営始原住宅は明治7−8年のことですが、
それに先だっての、明治4−5年頃の状況を探ってみることにします。
というのは、きのう書いた「官制放火」のことについて
読者の方から、実否定かならずではという情報が寄せられたのです。
札幌市公文書館所蔵の、ある「講演会」資料を教えていただいた。
この講演者が誰であるのかまだ調査中で不明なのですが、
公文書として保全された講演記録であり、
言葉遣いなどを考えると、名のある歴史学者の方のように見られる。
文書解釈についての厳密性への言及が文中多く見られる。
ただ、放火について基本的に平和な時代の価値感、一般的倫理解釈に
基づいていて開拓期の札幌本府建設の騒然たる社会状況が見えにくい。
この当時の「開拓判官」は天皇の新領土開拓・経営の勅命を奉じて
札幌に来て札幌神社(後の北海道神宮)頓宮設置などの国家意志を体した
島義勇の後任として判官になった岩村通俊であります。
<この間、開拓方針を巡っての意見対立の結果ともされる>
かれは土佐藩の出身で「陪臣」の長男とあります。
坂本龍馬が「郷士」出身で領主・山之内家の本来家来ではなく、
在来の長宗我部家臣家系で身分格差があったとされますが、
どうもそれですらない陪臣という。あるいは山之内家上級家臣の
その家来(陪臣)であったのかもと想像できる。
しかし明治政府の「薩長土肥」勢力として活躍の機会は広がっていた。
かれもまた、幕末の軍事動乱をくぐり抜けてきた歴戦の武士。
荒々しい開拓期の混乱する開拓本府・札幌建設での「施政」は
平和な時代の日常感覚とは自ずと違いがあると思われます。
佐賀藩士とはいえ天皇に勅命を託されるように純なところの感じられる
島義勇はどちらかといえば、理想家肌だったように思われる。
一方の岩村通俊は、その後西南戦争後の鹿児島県令を務めているように
武人的な統治の傾向を持っていたに違いないと思えます。
西郷隆盛の遺骸を丁重に葬って、人心を掌握するなどの事跡がある。
硬軟織り交ぜながら、武人的「統治」を基本政治手法としたのではないか。
実際にかれが「草屋根」の小屋掛けに放火するという命令を発したとき
下僚たちは思わず「そこまでやるのか」と息をのんだという一節がある。
当時の札幌での定住促進のために民に家作料まで与えたのに、
便宜的な小屋がけ・草屋根で済ましていた民たちの現実に対して
「一罰百戒」として、見せしめ的な統治手段に踏み切ったことは、
容易に想像しうるのではないか。

この御用放火に際し事前にそれを告諭したところ、豊平川対岸地域で
民の側でも自ら「草小屋」を棄却した事実があり、岩村は喜んだとされる。
その上で、青年層による「消火隊」も組織した上でことに当たっている。
この官制放火のあと、まちづくりは粛然と進んだとされるので、
「一罰百戒」の政策的果実は確実に成し遂げられている。
その後、開拓建設のための大量の作業員たちのために
「ススキノ遊郭」の建設を行ったりもしている。現実は理想ではない。
現実家・武断統治者としての才をそこに見る思いがする。
そういった「評価」が後のかれのさらなる出世につながっていると感じる。
平和な時代の価値感では想像力不足であり、当時の統治実相を見る思い。
このような武断的「住宅政策」がその後の北海道のある部分を
歴史的に物語っているのかもと、思い至ってきております。

<写真は、開拓期明治4年の札幌創生川周辺。大量の材木と一部に
「草小屋」も見えるとされるけれど、どうも白黒で判別困難>

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