昨日書いた記事の参考資料として札幌公文書館所蔵のデータに
「琴似又市」というアイヌの「乙名」のことが書かれていた。
開拓のとき、明治天皇の詔勅を背中にくくりつけたまま、
明治2年に海を渡ってきた判官・島義勇は、いったん「銭函」で逗留し
そのあと、正式に札幌を開拓のための根拠地・本府と定め、
入地したという記録が残されています。
このあたりは記述者の立場の違いによって書き方が変わると思います。
間違いなく先導して現地札幌に入って準備しているメンバーはいて
さらに受け入れのための作業は相当に進んでもいたことでしょう。
たぶん記述者は島義勇と同行して、その目線で書いたと思える。
国家意志としての「北海道開拓」は天皇の詔をもって創始されるのが建前。
維新回天から連続した時間経過、また箱館戦争の戦陣同時進行中、
北海道の地はまさに明治国家にとって国防であり民族独立の焦眉だった。
緊迫した時局認識、政治動乱の沸騰点でもあったのでしょう。
しかし開拓とは言ってもその当時は本州地域から
基本土木整備、測量実施、森林伐採などのための人手を確保するのが
緊急の課題であって、使えるのであれば誰でも使うということで、
札幌に隣接するコタンのアイヌの協力も仰いだとされているのです。
この「琴似又市」という首長は、和語にも通じていたそうです。
その後、かれは内地に留学もしているということなので、
明治政府に対して親和的なスタンスで協力していたことがわかる。
琴似、という名前はいまの札幌市北区の北大構内から、
桑園競馬場、さらにその西部にいたる一帯の地名を指したようです。
いまは、JR札幌駅から桑園駅を経過した次の駅が「琴似」。
わが社のある山の手に隣接する町名にあたります。
琴似の地名の語源は、アイヌ語「コッ・ネ・イ」(窪地になっている所)。
1872年(明治4年)開拓使によって「琴似」と命名された。
上の図は明治25年当時の札幌の手書き市街図とされますが、
碁盤の目状の市街配置の上側、北側には幾筋もの小川が流れていて
それぞれに「コトニ・・・」という名前が付けられている。
札幌地名も(乾いた大きな川を意味するサッ・ポロ・ペツ)であり、
いずれもアイヌへのある種のリスペクトがなければ
大命を奉じての開拓に当たって、こう地名は付けないだろう。
ふつうの日本人感覚では、北京というような地名がふさわしく感じられる。
<現実に対ロシア軍団配置された旭川には、この名を付けて
天皇の在所を作る、そうした計画も立案されたりした。>
であるのに、さっぽろと名付けた先人たちには共感をもつ。
江戸幕府以来、対アイヌの日本国家対応には納得できるものが多い。
平和的で民族和解的な対応を心がけていた様子が伝わってくる。
武人支配の革命政権だけれど、明治政府の心象も興味深い。
「琴似又市」さんのこの頃の心事にある感慨も持つ部分はある。
「同胞意識」は共有されていた部分の方が大きかったのか、
あるいは長いものには巻かれろ意識だったのか、
さらには、それまでの松前藩、請負場所経営支配構造と比べて
明治政府・日本国家の対アイヌの対応ぶりがはるかに納得できたのか、
など想像を巡らせられる部分は大きい。
できればこのあたりについて歴史の掘り起こしを試みてみたい。
Posted on 9月 27th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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