本文へジャンプ

【土地を知る「滞在型」宿泊〜泉州・堺】


きのうまでの関西滞在では「堺市」に宿泊していました。
関西版の発行にともなって出張機会は増えてくるのですが、
一回来たらなるべく長期に腰を据えてみたい。
とはいってもまぁ1週間程度ですが、その期間は
なるべく1箇所にいた方が「土地勘」が培養できるので、
そのように宿泊予定を組んでいます。
前は千里丘陵方面とか、尼崎とか、大津・瀬田とか、
点々としていましたが、今回は南部の堺に定点的にいて、
そこから関西地域各地に出掛けておりました。
なるべく生活的な目線を意識して、散歩とかでも
地域らしさを感受できるように計画してみる。
おのずと歴史とかの知識から、いろんなことを知ることが出来る。

ということで滞在中、数回訪れたのがこの「灯台」。
Wikipediaには以下のような記述。
〜旧堺燈台(きゅうさかいとうだい)は、大阪府堺市堺区大浜北町にある
木製洋式灯台跡である。現存する最古の木製洋式灯台のひとつとして、
国史跡に指定。江戸時代の堺港の燈台の変遷は、
「堺港燈台起源沿革書」に記録が残されている。
1689年(元禄2年)に初めて市中の商人の寄金で建築されて
以降、1877年(明治10年)の洋式燈台まで7期にわたって、
位置を変えながら新設されていったとされている。
堺港は特に1704年の大和川付替え以降、
土砂の流入などにより修築を繰り返しあわせて燈台も
規模を大きくしながら位置を変えていった。このことは同時に、
堺の町の発展を表すものであるといえる。
明治時代初期堺港の改修事業で新しい灯台設置の必要性が高まった。
そこで高山保次郎をはじめ、堺の有力者らは自ら基金を出し合い、
当時の堺県からの補助金も受けて灯台を建設した。
灯台の建設にはイギリス人技師指導のもと堺の大工や石工も深く関わった。
1877年に大波止(南突堤)の西端に灯台が完成し、
当初の光源は石油ランプを使い、約18キロメートル先まで
灯台の光が届いたとされている。
しかし時代が下り1959年から始まった堺泉北臨海工業地帯の
埋め立てにより、徐々に灯台の役目を果たせなくなった。
灯台は1968年(昭和43年)に廃止され、90年の歴史に幕を閉じた。〜

っていうことなのですが、さすがに「自由都市」堺らしく、
残された記録から、2度も「地域商人の出資」という事実がわかる。
まさに商人自治の伝統が息づいている。
関西という土地柄として、公に必ずしも依存しない
民、商人たちの独自の公的活動という側面が指摘されるけれど、
この灯台にもそういった歴史事実が刻印されている。
そんな歴史を重ね合わせ、なにげないスポットにも
地域とその人情について知識が拡大しますね。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.