伝統的なニッポンの家、民家を見るというのは、
そこで暮らしてきた先人の「空間意識」を感受することだと思います。
空間を作らせ規定したものは先人が持った倫理観や生活観であることは自明。
そこから現代の住宅づくりにひるがえって、
失われたなにごとかを想起するというのは、未来を考えていく手掛かりにもなる。
写真は、ある古民家の床の間のあるハレの空間と
日常生活が営まれただろう、ケの空間を対比したものです。
ケの空間の様子から、人々の日常の暮らしぶりが豊かに想像できる。
この住宅は兵庫県・姫路近郊の大庄屋建築ですが、
なんと採暖としての「囲炉裏」がありませんでした。
代わりに、日常使いの「かまど」が素焼きのレンガで造作されて
板敷きの空間に接合されて存在している。
囲炉裏自体はないけれど、その代替としてのいわばクッキングストーブ。
日本人というのは食卓テーブルを囲んで食事するというよりも、
各自の「膳」に盛られた食物を食べるのが一般的だったとされますが、
そのような日常生活が、この空間で営まれていたのでしょう。
この空間での冬期の生活を想像すると、厳しい。
日本人は寒冷に対して「忍耐」で向かったことが見えてくる。
一方、ハレの方の空間は、床の間がやはり惹き付けられる。
現代の住宅では畳の間自体が稀になってきているけれど、
こうした古民家には、必ずこういった「神聖空間」がある。
畳も、柱、横架材もクッキリと空間を「仕切っている」。
インテリア的な印象とすれば、まことに「筋が通っている」。
こういった空間性から想像される「倫理性」の息づかいがただよう。
こういう空間で人生の節目のようなことが営まれた。
人としてかくあれ、と民族的な「教育装置」として機能したように思える。
現代住宅では、こういった機能を果たしている空間は見出しがたい。
床の間のそのタテ横の空間の仕切り方、その「グリッド」感覚や、
そのなかでどのように置物や装飾品を配置するかという
空間についてのニッポン的感覚の磨き方など、いくつも気付くことがある。
こういう空間にはよく掛け軸などがかけられる。
その題としては絵であったりもするけれど、
よく書が掛けられたりもする。その意味とか、文字の表現力とか、
そのような機会でニッポン人的な内面は構成されたに違いない。
こういった空間の中で、どのようなニッポン人的な感受性が立ち上ってきたか、
そういうことにいつも思いが向かっていく。
こういった空間が持っていた住宅としての
意識醸成機能というようなものについて、どうも現代住宅からは
感じられることが少ない、失われているように思える。
そのことは、いい部分もあるけれどそうでない部分もある。
進化した部分と、退化している部分の両面があるのではないか?
Posted on 10月 17th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 古民家シリーズ
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