同社HPよりの「沿革」紹介。
〜聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が
日本に招かれました。このうちのひとりが、金剛組初代の金剛重光です。
工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。
重光は四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。
創業 飛鳥時代第30代敏達天皇7年(西暦578年)〜
こういう会社が存在するということははるかに聞いていた。
1400年以上の社歴を持った「会社」が。
北海道でこういった木造建築に関わる仕事の周辺にいるものとして、
どうしても言い難く惹き付けられるものを感じる。
ということで、昨日時間の合間を見て大阪・十三にある
「高松建設」本社を訪ねておりました。
このコンクリート建築ゼネコン企業が、社寺建築の金剛組を傘下に治める企業。
これはビジネスと言うよりも、純粋に住宅雑誌編集者としての
興味とある種のリスペクトに動かされてのことです。
ちょうどこの高松建設さんも「創業100周年」という祝賀の最中のようで
お忙しいなかでしたが、お話しをうかがうこともできました。
日本の建築文化の中で、やはりある種のベースは
こういった渡来人がもたらした宗教建築が存在するのだろうと思います。
たしかに聖徳太子の時代、東アジア世界の基本文化を受容するときに
寺院建築はまさに「最先端技術」であったのだろうと思います。
それまでの素朴な建築、たとえば伊勢神宮などの建てられようからすれば
大胆でキッチュなデザイン表現に満ちた仏教建築は
驚きを持って多くの人々の心象に染みわたったに違いない。
その空間の中で、聞いたこともない楽器による音楽や読経が奏でられた。
さらに麻薬とも思われる「香」が炊き込められた。
釈迦の言う境地とはこれかという認識がこうした演出とともに広がっていった。
そういった全体が「文化」として日本社会に染みわたっていった。
建築はその先端で重要な表現を担う分野として認識されたに違いない。
権力側にとっては、なぜ自分が支配者であり得るのかを
この「文化」の中心的担い手であることを通じてイメージを広めたのでしょう。
大和朝廷権力が全国支配を行っていく草創期で、
この金剛組のような「建築会社」の果たした役割は大きかっただろう。
北海道から来て、こういう「会社」がいまにあっても生きているという
現実を見せつけられると、人間営為の積層ぶりに驚かざるを得ません。
Posted on 10月 4th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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