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【ニセコ屏風絵続報。蝦夷地・義経≦琉球・為朝?】


さて先日、7月20日にニセコの旅館・ZABORINで見た屏風絵について
みなさんからのご意見を求めたところ、札幌在住の御園生 眞さんから、
きわめて論理的な推論をいただきましたので、ご紹介させていただきます。以下要旨。
〜先日の屏風絵について小生の解釈を述べさせていただきます。結論としては、
蝦夷地の絵ではなく琉球であると思われます。蝦夷地と解する根拠は、
おそらく右側の二人の人物がアイヌの人と推定されることにあると思われます。
しかし、半裸のアイヌ人の絵は見たことがありません。札幌の古書店弘南堂の
古書目録などで見るアイヌの絵は、ほとんどアイヌ民族特有紋様の衣服を着ている。
半裸状態で描かれているのは、温かい地域の住民だからと思われます。
他方、騎馬武者は鎮西八郎と称した源為朝と思われます。
為朝は保元の乱で平清盛に敗れ伊豆大島に流されその後自刃したとされます。
しかし、源義経の伝説に似た「為朝伝説」があり、その「為朝伝説」では、
為朝は伊豆大島から琉球に渡り、琉球王朝の祖になったということです。
屏風絵は、以上の事から琉球の風景と解釈できるように思われます。〜

源為朝とは、Wikipediaの記述要旨は以下の通り。
〜源為朝は、平安時代末期の武将。源為義の八男。頼朝、義経兄弟の叔父。
身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。
生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集め暴れ、
一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、
強弓と特製の太矢で大いに奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。
しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配、追討を受け自害した。〜
●さらに「為朝伝説」として以下の件が有名。
〜琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』『鎮西琉球記』『椿説弓張月』などで、
源為朝が琉球へ逃れその子が初代琉球王・舜天になったとしている。
来琉の真偽は不明だが正史として扱われ、この話が曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。
日琉同祖論と関連づけられ、この伝承に基づき1922年には為朝上陸の碑が建てられた。〜

・・・っていうような展開を見せてきている。
で、この屏風絵は「銀屏風」という画面形式になっている。
これは江戸期の江戸琳派、酒井抱一などの一流がよく制作したとされるスタイル。
江戸期に財をなした商家などが、琳派の絵師に依頼して
銀屏風を描いてもらった。画題についてヒアリングがあって、
「わたしは為朝伝説が興味深いと思っている。ひとつそれを・・・」という推測。
いや想像をたくましくすると、この商家というのは江戸期に盛んだった琉球ものの
商売で儲かった商家で、もっと琉球に取り入りたいという下心から、
江戸の絵師たちに、こういった画題を描かせて貢ぎものとした可能性もある。
色彩の濃厚な感じはたしかに南国的だとも思われます。
また武家の錦絵のようなカラフルないでたちも、平安末期らしさを感じる。
そういった想像だとすると、制作年代はおおむね200-300年前の頃で、
画題テーマは、平安末期の源平争乱期というように想定されることになります。
う〜〜む、なかなかに合理的な推論で、ほぼ同意できますね。
さて今後、もうすこし探求を進めてみたいと思っています。

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