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【浮世絵画題でなぜ「宿場もの」がウケたのか?】


上の図は東京国立博物館での展示から。
安藤広重・木曽海道六拾九次之内 「今須」であります。
ちょうどことし訪問した旧北国街道「海野宿」での似た構図の写真があったので、
ちょっとイタズラで相似させてみました。
江戸期の浮世絵と現代のインターネットには、その「文化の大衆化」で
ある意味、似たような部分があるのではないかと考えています。
ちょうど欧米人が江戸期ニッポンの浮世絵文化を再発見したように、
ひょっとするといまのデジタルデータ群が、ある時期の人類記録として
将来の人たちが文化現象として再定義してくれるかも。
浮世絵は江戸期の大衆文化ですが、日本における出版文化の
嚆矢ともいえるのだろうと思います。
蔦屋重三郎(1750年2月13日〜1797年5月31日) さんという人は
吉原遊女文化の揺籃のなかから、出版プロデュースという「版元」になっていった。
現代でも出版社のことを版元というのですが、その初見に近い。
肉筆でしかありえなかった絵画の世界に出版意識を成立させ
一部の支配階級の独占文化であった絵画を大量印刷によって大衆化させた。
世界的に、こういった大衆社会化状況が出現していたのは、
やはり江戸時代ニッポンが最初期なのだろうと思います。

そういう「出版がリードする」大衆社会状況の中でかれら版元は
読者がどんな視覚欲求を持っているかについて、先端的に意識を集中させていた。
かれらが発掘した「視覚欲求」のなかに、宿場ものというジャンルがある。
先日も長野の善光寺に参詣してきたのですが、
江戸期には旅行したいと思っても、自由には行けなかったのが、
宗教的な名目が立つとお上としても認めやすく「通行手形」が発行された。
そんな名目上の目的地として、善光寺という存在はあったのではないかと、
そんなふうに解釈させていただいた。
本当の庶民の「目的」はやはり旅自体にあったと思われる。
未知との遭遇、非日常への憧憬は人類普遍に存在するのでしょう。
安藤広重・東海道五十三次などという旅行ガイド的な出版が支持されたのは、
そういった背景があってのことなのだろうと思うのです。
で、浮世絵作家たちはそれぞれの作家センスを動員して、画題に知恵を絞った。
雨の構図が天才的と思われる東海道五十三次「庄野」や
ありえないような豪雪風景を描いた「蒲原」などはすごい。
シリーズ全体の構成の中で、天候も折り込んで表現することで
さらにいっそうの「旅情喚起」になると考えたものか、想像が膨らみます。
そういうなかで安藤広重さん、こういった何気ない宿場風景に
どういった余韻を感じていたのか、と思う部分もあるのですが、
こういうなにげなさから逆に数百年の時間を経て旅人たちの息づかいは伝わってくる。
時間を超えるコミュニケーションということでしょうか。

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