12-13日と長野市で開催された東北フォーラムほか、住宅関係団体の
「合同研修会」に参加しておりました。
ホストである「信州の快適な住まいを考える会」各メンバーからの
研究発表を受けての「分科会討論」、懇親会を1日目に行い
2日目には各団体からの研究発表などが相次いで行われました。
こうした模様については、本日札幌に帰った後、
来週にまとめてご報告したいと思います。
で、会は昨日の午前中で発表会を終えて、その後、
人口減少問題に直面し、自然エネルギー活用に活路を見出す試みを行う、
長野県・鬼無里〜きなさ〜地域の取り組みを見学しておりました。
で、その後、この重要文化財という「白髯~しらひげ〜神社」を見学した次第。
この神社は、天武帝の時代に「遷都」が計画された地にある。以下Wikipediaより。
鬼無里は紅葉伝説や遷都伝説など都に関わる様々な伝説が残る山里である。
伝承によれば白鳳13年(685年)に信濃国への遷都のため天武天皇に遣わされた三野王は、
鬼無里を候補地とし、新都の鎮守として裾花川の両岸に東京(ひがしきょう)の加茂神社
と西京の春日神社、そして鬼門の方角に白髯神社を建立したという。
本殿は一間社流造、杮葺きで桃山時代の建築と考えられ、
国の重要文化財に指定されている。なお、本殿は保存のためコンクリート製の
鞘堂に収められており、通常は拝観できない。
神楽は長野市の指定有形文化財で、鬼無里ふるさと資料館で展示されている。
ということなのですが、今回は縁あってこの「重要文化財」の本殿を
見学させていただけました。2枚目の写真であります。
この本殿自体の創建年代は確定されていないということ。
およそ300年ほど前に大規模修復され、そのときの記録では
200年以上経っていたという記述があることから、少なくとも500年前、
戦国末期くらいまではさかのぼることができるとされていました。
拝殿は下のような様子で、こちらは江戸末期くらいの建築とされていました。
ただし、祭られているのは猿田彦命とされているので、社格としては
そう高い神社ではないのだろうと推測されました。
天武帝と言うことで、壬申の乱のときに
かれは一旦、東国に身を逃れて兵を募ってから
西上して天下掌握を考えていた件があるので、
その場合の新京造営比定地としてこの山深い信州の地を考えたのかも知れません。
いまは小高い山の上にあるのですが、古代には
周辺の「水利」の要衝地であったという説があるそうです。
歴史年代を通じて田んぼが開発され続けた列島社会では
自然の変貌もすさまじかったのだろうと思われます。
まだ善光寺などは見学できていないのですが(きょう予定)
畿内地域と東国を結ぶ日本史の交通交差点としての歴史来歴の古さを
これらの宗教施設の古格ぶりに見させられる思いがします。
また、北海道の中世の消息もこの地方の諏訪大明神絵詞に記述があるとされます。
日本史の中でこの地域は、まさに東西南北の交流史が積層もしているのでしょう。
本日、短い時間ながら、若干探訪したいと思っています。
Posted on 5月 14th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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