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原爆ドーム見学以降、考えたこと

2012年に歩いた歴史的空間で、やはり一番衝撃を受けたのは
広島市の原爆ドームだと思います。
住宅技術の研究団体・新住協の全国大会が広島市で開かれた折に
空いた時間を縫って見学させていただきました。

わたしは昭和27年生まれであり、その年代はこの惨禍からの精神的な復興が
日本の政治・文化の主流だったものと思います。
わたしが物心ついたころで考えても、
この惨禍から十年ちょっとしか経過していない。
そういう時代精神が60年や70年の安保反対運動の底流だったことは間違いないでしょう。
そうでありながら、
この原爆ドームと、その記録施設には足を踏み入れたことはありませんでした。
単に北海道在住という地理的に遠いということが主要な原因だったのですが、
やはり、こういう機会に接することが出来てよかったと心から思いました。
その惨禍への直視、学ぶべき教訓は永く日本人は共有していくべきだと深く思いました。
一方で、どうしても、福島第1原子力発電所事故との対比性がテーマとして
浮かび上がってこざるを得ない時期でもあり、その意味でも考えさせられました。
ただ、原爆が国際政治の究極的な事態としての
戦争もしくは威嚇手段に使われるものであるのに対して、
一方の原発はあくまでも平和的なエネルギー利用の手段であるということは
根源的な違いだと思います。
わたしたちや、やや上の「団塊」世代が「反安保」に駆られたのは、
その内語として「反米」ということを無意識に思っていたに違いないと思うのです。
たぶん、アメリカから見ればその支配下に置いた国、
日本の民衆支配において、このことはもっともデリケートに扱うべきテーマでしょう。
しかし抑制的ではあれ、その原爆使用の正統性は譲れないのだろうと思います。
そして戦後世界のパワーポリティックスにおいて、
アメリカは実際に原爆を使用した唯一の国として、現実的に国際政治的には成功してきた。
なんといっても、現実にその兵器を使用した「実績」は
各国政治指導者に、ながく「重し」としての役割を果たし続けてきた。
わたしたち日本人は、内語としての反米を自ら封印しながら、
戦後世界のなかで生き延びる現実的選択をつねにしてきた。
60年安保デモの直後の国家体制選択で、国民は自民党による圧勝を民意としてみせた。

民意の表現としては、
今回の直近衆議院選挙は、この60年安保後の選択民意と似た結果になったと思う。
福島の原発事故と広島の原爆被災とは大きな違いがあるけれど、
その両方において、示された民意の共通性とはなんなのだろうか?
ツイッターなどビッグデータ解析の結果に踏まえた意見、解説が出始めてきている。
やはり今回の民意において「原発事故」は、
他を圧倒するような選択契機になっていたのだといわれている。
反原発派の分断に成功したのだ、というような考え方もあり得るだろうけれど、
そういったことを勘案したとしても、やはり自民圧勝が民意だと考えざるを得ない。
まずは国民経済の安定、足元をしっかりと踏み固めなければ、
たとえ原発廃棄に向かうにしろ、実現可能性がそもそもないのだという、
そういう現実的選択だったように思う。
岸信介は安保闘争で退陣を余儀なくされたけれど、
その孫に当たる安倍晋三は、その流れを察知しうまく生かしたと思う。

さて、被爆直後の当時、人間が住めるようにならないとまで言われた広島の街は
とうの昔に復活し、大きな発展を遂げていました。
地酒を愛し、お好み焼きに舌鼓を打ちながら神楽に陶酔して
語り合う人々は、明るく快活だった。
市内至る所に、原爆被災からの復興樹木が簡単な添え書きと共に生育している。
福島の惨禍から、現代のわたしたちは教訓を汲み取って
復興をなしとげることが出来るのだろうか。
ふたたび日本人は、そういうふうに世界を驚かせることが出来るのか、
今ふり返って見て、この原爆ドームの写真を、そんな思いで見ています。

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