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国見山廃寺でさざれ石?

歴史フリークとしては、最近なかなか探訪の旅に出られず、
ややさみしい思いをしておりますが、
先日、少し時間があったので、前から見ておきたかった
「国見山廃寺」を探訪して参りました。
これは、奥州の安倍氏の時代に栄えた寺院跡で、
たどり着いてみると、北上の展勝地からほんのすぐ近くに位置しています。
ということは、北上川からも目につくような位置にあることになる。
以下、Wikipediaより

北上市街地の東方、北上川東岸の国見山(244メートル)の山上及び山麓一帯には仏堂や仏塔の遺跡が散在し、かつてこの地域に大規模な仏教伽藍の存在したことが明らかである。この寺院跡は「国見山廃寺跡」の名称で国の史跡に指定されている[1]。『日本文徳天皇実録』の天安元年(857年)条に「陸奥国極楽寺、定額寺に預かり」云々の記述があり、この「極楽寺」は国見山廃寺を指すものと推定されている[2]。この寺は平安時代初期の9世紀に創建され、発掘調査の結果から、10 – 11世紀に最盛期を迎えたと推定される。伝承では、坂上田村麻呂が異敵降伏のため毘沙門天を祀ったのが始まりであるという。

国見山南麓の谷奥には極楽寺の寺号を継承する小寺院が残っている。また極楽寺の近くにある如意輪寺、国見山北麓の立花毘沙門堂(万福寺)もかつての極楽寺の坊舎の跡と考えられている。立花毘沙門堂には木造毘沙門天立像と木造二天像(いずれも国の重要文化財)が安置されている。

ということなのですが、
「極楽寺」というすごい名前の寺が現在も残っている。
そこから山上に向かって2〜3分クルマで走ると
鳥居が立っていて、急峻な参道石段を10mほど上ると
やや平坦な寺域・神域とおぼしき清浄な空間が展開していることが察せられる。
周辺にはたくさんの案内板があって、本堂跡だとか、
経塚跡だとかの宗教的な施設群がそこに展開していたことを知らしめている。
真ん中の写真は、そんななかにふと見つけた岩とも石とも言えるもの。
苔むしているし、周辺の植物が覆いかぶるように繁茂しているのですが、

近接してみていたら、
どうも「さざれ石」なのではないかという気がしてきた。
神域で見るからそのように思えるのかも知れないけれど、
表面の様子などから判断すれば、どうも確かなように思われる。
で、ここからは、まったくの夢想だけれど、
この寺域・神域は坂上田村麻呂による創建と伝えられている。
ようするにヤマト政権による東北征服戦争のモニュメント性も与えられた建築群。
そこに「さざれ石」は、なんとなく符帳が合う。
さざれ石は、コメ生産を中心的な生産手段として各地に成立した古代の「クニ」が
たくさん集まって連合的な集団安全保障体制として
より大きな権力機構として成立した日本という国家を象徴するものだったのではないか。
君が代に、あのように歌い込まれているのには意味があるのではと思うのです。
そのような国家の意志を持って征服地に神域を作り、
そこにさざれ石を鎮座させたのではないか。
そのようなインスピレーションを持った次第。

まぁきっと妄想でしょうが(笑)、でも誰か専門の人に今度、聞いたみたい。
さて、これはどうやって検証すべきなのか?
学者ならぬ、イチ民間歴史民俗好きオヤジとしては、途方にくれるテーマを
抱えてしまったと思っている次第であります(笑)。

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