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天災の歴史事実

なにげなく、日本史の「出来事」一覧を見ています。
基本は「日本の出来事」というWikipediaのデータをエクセルに取り込んで
その上で、その後、自分自身で書き込みを加えていって
重層的な事実や出来事の記録を作っていっているわけです。
だんだん、いろんなことを積み重ねていくと
そういう事実の相関関係も見えてくるようになるので、
複眼的な見方を養えるのではないかと思っている次第です。
そういうなかで、最近見ているのが、貞観津波のころのこと。

800年代後期気候の寒冷化
864年 富士山貞観大噴火
869年 陸奥大地震 貞観津波千人を超す死者
875年 渡島荒戎、秋田を襲う 秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大

っていうような記述を確認しています。
<いま、確認してみたら、Wikipedia本文にはないですね(笑)
その後、わたし自身での歴史研究でみつけたものですね。出典は、さてなんだったかなぁ・・・そうか、出典記録も必要ですね、これからの追加では>
歴史年代では、富士山は何回も噴火している。
平安時代の中期頃に相当しているのですが、
ここにある「貞観津波」というのが、今回の東北地方太平洋沖地震と
その後の大津波との近似性を指摘されているものです。
当時のヤマト政権の東北地方の「遠のみかど」多賀城の城壁が崩れ、
津波による死者が千人を超えた、とされ、
その地層的な証拠も発見されているそうです。
当時の(900年ころ)の東北の人口が60万人くらいという推計だそうなので、
その1/120程度の人口が失われた事態だった。
で、この津波は富士山の噴火がその6年前になっている。
連動関連性がどの程度なのかは分かりませんが、
歴史的には、こうした記録が残っている。

自然の大災害は、社会の構造変化を誘発するものでもあると思います。
その後の「渡島荒戎、秋田を襲う 秋田城の対北海道蝦夷の饗給の増大」
というのは、たぶん、北海道の檫文のひとびとが
秋田のヤマト朝廷側交易拠点を襲撃したということ。
そして、そういう圧力の元で
懐柔的な対応を、秋田城の側で行ったという記録なんです。
その後、「元慶の乱」という秋田での現地住民と北海道勢力も巻き込んだ
大きな戦乱が引き起っている。
今回の大地震・大津波、このころの争乱とはまったく規模が違う大混乱を
日本全域で巻き起こしつつありますね。

<写真は江戸期・天明飢饉の混乱状況絵図>

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