写真は大正15年建築の北海道上富良野に遺る「高級住宅」の縁と座敷。
日本住宅では室内の座敷に「格差」が存在し、そのもっとも「いい部屋」には
床の間や、書院などが備えられていた。
そこから庭を望み風雅を愛でるのが高級「住文化」の基本価値感。
床柱にはなになにを使ったというのが家自慢という格式文化。
北海道開拓初期には大自然の肥沃な土壌から物成りがよく、
農家では農業収入がかなり大きく周辺の天然木をふんだんに利用した
「豪農型」の住宅も比較的多かったと道央三笠が根拠地の武部建設さん談。
しかしこの上富良野の「吉田邸」は出自が武家ということなので、
広大な土間が特徴的な豪農型ではなく、いわゆる日本的な空間美が志向された。
先日から複数回、この家をブログで取り上げていますが、
やはり焦点はこの写真の「開放せず閉じられた縁側空間」であります。
伝統を踏まえた日本建築として4間を越える長大な縁側が庭に面して
ウチと外のあいまいな「中間領域」が住宅美の典型を見せる狙い。
ところが北海道・富良野盆地の冬期は日本住文化の想像を超える寒冷。
日本人として、その「成功者」として贅を尽くした「いい家」を建てたい。
しかし、冬に寒いのは生活の場として許容できない、ムリ。
ということから「開放的」な外部との関係は「眺望」以外は諦めて、
当時の先端的建材・ガラス引き戸を内側と雨戸代わりの引き戸・外側と
2重にガラスで建具造作し「視界は外部を取り込むけれど防寒的」という
そういう「室内的縁側空間」を新規な挑戦的空間として造作した。
この空間は、このように「読み解く」ことが自然でしょう。
しかし悲しいかな、このような外部との開放を伴わない空間は
本来「縁側」と呼称するにはやはり似つかわしくはない。
ガラス製建具は基本防寒用途であり、
開放的に「自然と親しむ」環境装置としては機能しにくかったでしょう。
そもそもガラス建具の雨戸は仕舞い込む「戸袋」はあるけれど、
軽快に出し入れ出来たかどうかは、その重量もあって疑問が残るし、
そもそも半年以上は事実上出し入れは機能しなかったでしょう。
積雪凍結環境条件下で建具の円滑な出し入れは相当の困難。
・・・そのように考えてくると、この室内縁側はどのような機能空間だったか?
ハタと、考え込んでしまう次第であります。
数少ない北海道での「成功者」が自身の成功を建築として
遺したいと考えたとき、結果、新たな「建築文化」発見創造も必要だった。
2重ガラスで閉じられた縁側という自己矛盾的な空間に、
どのような意味を見出すべきなのか、深く悩ましかったのではないか。
重厚なガラスでの遮蔽で外部と気候区別する空間は出来たが、
本来の日本的な半戸外的・住文化生活様式は満足できない。
結局は「明るい室内大空間」がそこに残ったということかと。
伝統は機能せず、革新的なあらたな住価値創造の方向しかなかったのだと。
目指した空間を気候条件と相談しながら作ったら質的な変化もした。
そう考えると、伝統的日本住宅ではそのような大空間は未開拓領域。
「これって、俺ららしい住文化じゃないか・・・」
北海道で日本人は、閉じられた大空間にそういった意味合いを見出した、
この写真の空間からはそうした空間志向の「萌芽」が想起される。
そこから室内の温度環境も高度化した大空間志向が強まった。
そのように思われるのですが、みなさんこの推論はいかがでしょうか?
Posted on 8月 17th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究
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