さて「北海道住宅始原期への旅」ですが、本日は
日本国家が本格進出して札幌に開拓使本庁を設置した明治初期から
一気に1200年遡って「古代集落遺跡群」セミナー資料からの論考。
北海道では11-12世紀アイヌ期に竪穴から平地住宅・チセに変わりますが
やはりそれ以前の竪穴住居について、強い興味を持っています。
というのは、いったいどうやって「穴を掘ったか」に興味がある。
写真下は6-7世紀の特異な存在である海民・オホーツク文化の遺跡
「カリカリウス遺跡」に建てられた復元住居内部。
こちらの竪穴は現代寒冷地の「凍結深度」並みで、なんと1mもの深さ。
「オホーツク文化」では竪穴が大型で5−6家族が同居と言われるので、
もちろん共同作業の人数も多いのだけれど、それにしても
1mも掘るのはなかなかの重労働だと思えるのです。
その上、かれらの家では地中壁に「割り板」が建て並べられている。
木を切り倒すのには伝統的石器・石斧などが用いられたでしょうが、
割板を造作するのは、それも手間暇の掛かる作業だろうし、
それをタテに土中に埋め打ち込んでいく作業もある。
さらに、この竪穴では真ん中の土間部分・囲炉裏を囲むように
板敷きの「ベッド」が周囲に造作されているのです。
さらに架構の木材を建てたり、組み上げたりしなければならない。
それに今度は樹皮で外装していく作業もあった。入口は高くしているので
上るにも降りるにも「ハシゴ」や階段の造作も不可欠だった。
囲炉裏周囲の床面は、粘土で平滑に塗り固められている。
相当の作業と技術がこの竪穴には動員されていたといえるのですね。
まず、竪穴掘削作業の労苦はかなりの重労働だったことが確実。
その掘削「道具」は当然、スコップ状のものが使われたでしょうが、
竪穴遺跡から木製の出土例はあるようですが、木製だとどうしても
掘りにくいし、炭化して残らないケースも多い。
で、北海道オホーツク文化遺跡(根室)から上の写真のスコップが出土。
土と接して掘削する本体部分ですが、これに木で持ち手を結合させれば
現代人もふつうに考える「スコップ」道具になる。
それがなんと骨角器。それも大型の「鯨の骨」だというのです。
ということで、かれらの生業・ライフスタイルへの想像力が俄然盛り上がる。
この写真はこれも骨角器の「針入れ」。(根室の6-7世紀の遺跡出土)
獣骨を切ったイレモノに繊細な線刻画が施されている。
この線刻画には鯨と思われる海生動物に「銛」が打ち込まれ、
それを船に乗った人間たちが櫂でこいで追跡し、船上から
さらにいま、鯨にトドメを刺そうと銛を構えている構図が描かれている。
大型の海生動物のハンティングがかれらの生業だったのです。
鯨の骨はこのような海生生物漁撈の結果得られた産物。
海に生きたオホーツク人ー総合研究博物館データベースー東京大学
オホーツク氷民文化・海に生きたオホーツク人<高橋健>の記述ではさらに、
「海での活動には欠かせない船について。北方民族の用いる船としては丸木船の他に板張船、板綴船、皮船、樹皮船などがある。これまでのところオホーツク文化の船そのものが遺跡から出土した例はないが、船を模したと考えられる製品がいくつかある。(それらの分析から)船首が棒状に立ちあがることから板綴船もしくは板張船だと考えられている」〜という記載がある。
こうしたダイナミックな生業と造船技術をかれらの社会は持っていた。
とくに「板綴船もしくは板張船」ということから前述の住居での板の加工も
技術的にはまったく同一だといえるでしょう。
人類史的に「家大工」に先行する「船大工」技術の相関を強く示唆する。
しかし、かれらオホーツク人社会にとってはさらに強力な先進技術ツール
「鉄器」の交易入手は、やはり喉から手が出るほど希求したとされる。
この線刻画自体、貴重な鉄製ナイフで描かれているのです。
結果、北海道島の先住民族(のちのアイヌ)と日本社会との交易に干渉し
直接日本との交易を求めたのではないかと想像される。
それが658年前後の阿倍比羅夫の遠征で軍事外交的に敗退し、撤収した。
明治を遡ること、さらに1200年以上前に
こんな北海道「住宅史」が浮かび上がってくる次第です。
<あしたもこのテーマで続篇予定>
Posted on 12月 20th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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