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【古代北海道へ進出の海民 生業と大型住居】

北海道住宅始原への旅、スピンアウト6-7世紀の竪穴住居、きのうからの続篇。
蝦夷地と言われた北海道島では、やがてアイヌ文化に収斂したけれど、
その過程ではいろいろな民族的混淆があった。
大きな動きとして「オホーツク文化人」の人々の進出痕跡が色濃く残っている。
かれらは北東アジアから「南下」した人々で海生生物狩猟が主たる生業。
で、これまで北海道の古代史探究から以下のような推測を強くしております。

かれらは北海道東部海岸部を中心に、宗谷半島を回り込んで日本海側の北部、
礼文島や利尻島、さらに南下して奥尻島まで居住痕跡がある。
きのうみたように大型海生動物、クジラ捕獲まで生業としていた。
既存の居住者である(のちの)アイヌ民族とはまったく社会を異にしていた。
しかし交易の対照としては、日本社会との直接交易を目指していた。
かれら側からは大鷲の羽根や海豹の毛皮などの貴族向け「威信材」が
交易品として珍重されたと王朝側の記録がある。
(鷲羽根は男性貴族の階級象徴として矢の装飾に利用され、
海豹(アザラシ)の毛皮は女性貴族の装身具になったという。)
いまでも流氷とともに発見されるオジロワシですが、
この最高級の羽根を持つ鳥類は当時から道東知床や根室地域が主産地であり、
その地域はオホーツク文化の人々がほぼ独占占拠していた。
やや時代を下って平泉藤原氏の交易ネットワークでこうした産品が
ヤマト国家社会に「安定的に」もたらされるようになる状況がある。
一方でかれらが希望したヤマト側の交易品はまずは鉄製品だったとされる。
狩猟の生業維持拡大のために最適な「鋭利器」として鉄器を強く求めた。
阿倍比羅夫はアイヌ社会との伝統的交易「外交」関係を優先して
また、アイヌ社会側も対オホーツク文化圏との緊張関係の中で
ヤマト国家側の海軍的武力を「利用」したと推定できる。
日本書紀記述の阿倍比羅夫の条は、こういった勢力関係を表現していると思う。
北海道島の「歴史」においてこのオホーツク文化の「海民」の動向は
かなり大きなインパクトを持ったものだったといえるのではないか。
上のイラストは昨日も紹介した
海に生きたオホーツク人ー総合研究博物館データベースー東京大学オホーツク氷民文化・海に生きたオホーツク人<高橋健> からのもので、
かれらの後のオホーツク海岸域の住民であるアイヌ生業を表したもの。
『蝦夷山海名産図会』にみるアイヌのオヒョウ漁。ノトロ(網走の能取)浜。
(松浦武四郎(秋葉実翻刻・編)『松浦武四郎選集二』北海道出版企画センター図23、
1997より)〜とあるとおり、江戸末期の探検家・松浦武四郎の筆。
オホーツクの海民はアイヌの社会にクマ祭祀などを遺して
同化して消滅していったとされているのですが、
オヒョウのような最大4m超の大型魚類の漁撈技術痕跡をとどめたようです。



そうしたかれらオホーツク文化人の竪穴住居。
〜上写真は道東標津カリカリウス遺跡復元住居。中図は12.6「北海道古代集落遺跡」
セミナーでの東京大学・熊木俊朗先生発表の図表類から。下写真は同日配布の
パンフから竪穴室内外周壁面の土留め兼用の板壁と「ベッド」部の炭化痕跡。〜
きのうも触れましたが、たいへん大型でたぶん1つの「漁船」乗組員を
一単位とした「住居」と想像できる5−6家族同居の大型住居。
このように「家族関係」で結ばれることで船上でのハンティング・漁撈での
共同作業がより円滑に「一心同体」的に可能になったのではといわれる。
大型だけれど囲炉裏はひとつだけで、煮炊きは共同していたのでしょう。
狩猟の結果のクマ主体の「骨塚」が室内に祭壇のように定置される。
森の精霊とされるクマへの独特の「民族的リスペクト」が込められているのか。
炉の周りの床面には粘土が塗り固められて居住性が高められている。
現代住宅とはまったく違う文化組成だけれど、その家づくりには
実にさまざまな生業文化が積層されていると感じられる。
その暮らしぶり、生き様がマジマジと伝わってくるかのようだと思います。

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