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【ケプロンも滞在?明治の端正デザイン「洋造弐邸」】


明治6年というのは開拓使の建築がもっとも活況を呈した1年とされる。
象徴的建築としての「開拓使本庁舎」の大工事が進捗し、
さらに「お雇い外国人」たちがどんどん入地してきて、
いかにも北米的な「洋造新都市」がその骨格を表してきた時期。
北海道開拓という大事業が小さな歯車の住宅建築とともに進展する。
そういった「遠い記憶」の実相を見続けることは、
いま令和というあらたな時代の開始にあたって明治からの遠雷。
150年のタイムスリップは、しかしまったく古さを感じない。
むしろ日本を進化させようとする明治の必死さに深く打たれる。

明治5年以降、洋造方針が確立して北海道の建築は
それまでの日本の伝統建築から大きく離脱を開始する。
そのときに「お雇い外国人」という存在は大きな役割を担った。
ケプロンさんは、アメリカの「農務省」の次官から極東の小島の
開拓方針の策定アドバイスを委託される立場になった。
「開拓の先人」であるアメリカと日本との長き関係において
北海道開拓は、象徴的なことがらだったのだと思う。
そうしたアメリカを中心とする外国人「教師」たちのための居館が
建設されることになる。写真の「洋造弐邸」はそのシンボル。
よくアメリカの建築のベース「パターンブック」というものが語られる。
開拓時代は建築の専門家集団に委ねることが不可能に近かった。
そこで建築のパーツを単純化し、自分でDIYでも建てられるように
工法も建材も「合理化」が社会全体で追究された。
そのなかで住宅デザインについても住宅図面集である
パターンブックが一般的に流通していた。これであなたも一流デザイナー。
それが太平洋を超えて日本の北海道に「洋造建築デザイン」として
蜃気楼のように「移植」された原動力であったと思える。
この「洋造弐邸」も、非常に均整の取れたプロポーションであり、
窓の規則性の美しさ、軒の出の「薄さ」全体としてのシャープさも
それまでの和風住宅との乖離を感じさせ、驚きであったに違いない。
お雇い外国人の中に「建築」の専門家はいなかったとされる。
かれら自身の住宅について希望条件などをおおまかにヒアリングしたか、
あるいは開拓使営繕課がはるかに「忖度」して企画住宅として提供したか、
たぶん後者。建築構法自体は日本木造様式だけれど、
ほぼパターンブック通りの端正な住宅建築に仕上げられている。
幕末から明治の開拓使営繕課や現場大工たちの技術の急速な取得ぶりに驚く。
これはたぶん鉄砲が種子島に伝来された途端に、あっという間に
堺を中心とした地域で産業が成立し世界有数の鉄砲生産国に変貌した
そういった日本社会の故事、技術素地を再見する思いがする。

ここでも2階から「煙突」状の突起物が外部にみえている。
当時、ストーブの工場生産化が創意されていたとされる。
日本で初めて制作されたストーブは、1856年の函館が始まりとされ、
イギリス船が北海道に入港する際、寒さを凌ぐために使用していた
ストーブを参考に制作されたと言われている。
当初は薪が主熱源だっただろうけれど、その後北海道で石炭が発見され、
地域には必須の暖房熱源として安価に提供された。
わが家伝承では産炭地から流れてくる河川の川原で「タダで拾ってきた」(笑)。
この「暖房革命」も北海道開拓と同時並行で日本社会に根付いていく。

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